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アインシュタインが聞いた「内なる宇宙」の声 【『What I believe』に学ぶ】

この地上での我々人間の立場は妙なものである。
我々の誰も、ほんの一時ここを訪れるだけであり、
なぜ生まれて来るのかは知らない。
もっとも時には、
何か人生の目的を探り当てたような気にもなるのだが。
しかし、毎日の生活という立場からは、
一つだけはっきりわかっていることがある。
つまり人間はひとのために生まれて来るのだということ
――とりわけ、その人がニコニコして幸せであれば
我々も幸福になれるというような人たち、
またその人たちの運命と我々が
共感というきずなによって結び合わされている
無数の未知の人たち、そういう人たちのために
生まれて来るのだということである。
一日に何度も私は、私の外的・内的な生活が、
生きている人や既に亡くなっている多くの人たちの労力の上に
築かれていることが如何に多いか、
また、こちらが受けただけのものをお返しするには
如何に一所懸命努力せねばならないかを痛感する。
私は、自分が他人の労に負うところが
あまりにも多いことを考えると憂鬱になって、
心の平安が乱されることも珍しくない。

   Strange is our situation here upon earth.   Each of us comes for a short visit, not knowing why,  yet sometimes seeming to divine a purpose.
   From the standpoint of daily life, however,  there is one thing we do know: that man is here for the sake of other men――above all for those upon whose smile and well-being our own happiness depends,  and also for the countless unknown souls with whose fate we are connected by a bond of sympathy.   Many times a day I realize how much my own outer and inner life is built upon the labours of my fellow-men,  both living and dead,  and how earnestly I must exert myself in order to give in return as much as I have received.   My peace of mind is often troubled by the depressing sense that I have borrowed too heavily from the work of other men.

『What I believe』by Albert Einstein(朱牟田夏雄訳)

これは世界的に有名な「20世紀最高の物理学者」とも称されるアインシュタインの言葉です。
彼は、地上において、人間という存在は他人のためにあり、その他人の幸せのためにあるのだと言っています。
他人が幸せであることで、自分もまた幸せになるのだ、という利他的存在性を強調しているのです。
「一日に何度も、自分の生活が他人の労力の上にあるのだと痛感している」という彼の言葉をみても、アインシュタインがいかに社会的なつながりを意識しながら生活をしていたかがわかります。
「by a bond of sympathy(共感という絆によって)」結ばれている多くの未知の人のために、人は生きているのだという彼の言葉には、とても実感がこもっているように感じられます。
広大無辺な宇宙について考え、『相対性理論』という偉大なる物理学上の功績を残した彼が、人間社会における「共感シンパシー」や「きずな」について発言していることを意外と感じるかもしれません。
アインシュタインには、彼独自とも言える一種の宿命論があります。

私は、人間に哲学的意味での自由などがあり得るとは決して思わない。
我々の行動は外からの強制だけでなく
内的必然性によっても規定されるからである。
「人はしたいと思うことをなし得るにちがいないが、
何をしたいかを自分できめることはできない」
というショウペンハウエルの言葉は、
青年時の私に強い印象を与え、以来、
人生の辛さを見たり経験したりするたびに、
常に私の慰めとなって来た。
こう確信すれば常に寛容の気持ちが生まれる。
そう考えれば自分や他人を
あまり大まじめに考えすぎるということができなくなり、
どちらかといえばユーモアの気持ちが生まれてくるからである。

   I do not believe we can have any freedom at all in the philosophical sense, for we act not only under external compulsion but also by inner necessity. Schopenhauer's saying――"A man can surely do what he wills to do, but he cannot determine what he wills"――impressed itself upon me in youth and has always consoled me when I have witnessed or suffered life's hardships. This conviction is a perpetual breeder of tolerance, for it does not allow us to take ourselves or others too seriously; it makes rather for a sense of humour.

『What I believe』by Albert Einstein(朱牟田夏雄訳)

「inner necessity(内的必然性)」によって行動するためには、内省的な態度や生活が強く要求されるでしょう。
人の本性や天性とは何か・・・。
自分の使命や天命は何か・・・。
というような、人間存在の根源とも言える問題に対して、絶え間なく思索を繰り返していなければ、到底、答えなど得られるものではありません。
静寂の中でたった独り身を置いて、自己の身の内にある「心性」「天性」を常に問い続けるような追究の日々であったのでしょう。
物理学の観点から、宇宙の真理について探究し続けていたのと同じくらい、自己の存在や生きる意味について考えていたことが、彼が発した言葉からも窺い知ることができます。
「自己の本性や天性の中に自己存在の全てがある」
「生きる意味の全てがここにある」
と覚醒した人だけが、社会における自分の役割がわかるのかもしれません。
アインシュタインのように、利他的存在である自己の本性に気がつくためには、徹底した自己の内面追求が必要となってくるのでしょう。
私たちが存在している宇宙について、真理の一端を垣間見ることに成功したアインシュタインの言葉であることを考えると、内なる宇宙とも言える「本性」や「天性」に関する彼の発言からも、私たちは多くのことが学べるような気がします。

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