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理想の生き方、理想の文体 【儒教のストイシズム】

儒教のストイシズムによって養われた明治の精神能力は和漢洋、三つの学問の奥義を究めていささかの懈怠も示していないのだ。

伊藤肇著『帝王学は人間学』(徳間文庫)

これは昭和時代の影の宰相と言われていた安岡正篤の高弟であり、雑誌『財界』の編集長もしていた伊藤肇さんの主張です。
1990年に出版された文庫なのですが、当時、何度も読み返すほど愛読していた本です。
この本に出会ってからは、和漢洋に精神を鍛えるために、古文や漢文、英文の三つを意識して学ぶことを心掛けるようにしています。

森鴎外はドイツ語の達人であったため、彼が翻訳した詩は世間でもよく知られています。
岡倉天心は「茶の本」を英文で書いています。
中でも最も有名なのは鈴木大拙でしょう。
彼は英文によって、禅の奥義を世界に広く紹介しました。
そのことが、世界中の思想や宗教の分野で、「禅」の考え方が多く取り扱われるきっかけとなりました。

自分も、森鴎外の「漢文をベースにした文体」には憧れがありました。
かの芥川も、鴎外の文体を理想としていたと言われています。

明治の文学者、思想家は例外なく四書五経によって鍛えられ、精神のデッサンをしている。
文章のひとつとってみても、昭和の小説家や評論家の、いかにももってまわったいいかたばかりするくせに、内容の空疎な、軟弱で、ふやけた文章と違って、簡明直截、力強い鋼鉄の如き文章である。

伊藤肇著『帝王学は人間学』(徳間文庫)

そもそも「ストイシズム」という言葉は、紀元前3世紀ごろ、古代ギリシャの一学派であった「ストア派」によって提唱された哲学のことです。

ストイシズム(stoicism)
1 ストア学派の学説。ストア主義。
2 ストア学派風の克己禁欲主義・厳格主義。

参照:デジタル大辞林4.0

ストア派の哲学者であるエピクテトスやマルクス・アウレリウス、アントニウスやセネカなどは、明治・大正・昭和にかけて、旧制中学や旧制高校でよく読まれていました。
やはり、儒教のストイシズムと相通ずるものを感じていたのではないでしょうか。
ストイシズムとは、「克己復礼」と言い換えることができます。

顏淵問仁。
子曰、克己復禮爲仁。
一日克己復禮、天下歸仁焉。
爲仁由己。而由人乎哉。

【書き下し文】
顔淵仁を問う。
子曰く、
おのれちて礼にかえるを仁と為す。
一日もおのれち礼に復れば、天下仁に帰る。
仁を為すことおのれる。
人にらんや。

『論語』金谷治訳註(岩波文庫);顔淵第十二

つべきおのれ」とは、私利私欲をはかり他を顧みない利己主義エゴイズムにあります。
夏目漱石は、明治という新しい時代の中で、このエゴイズムに苦しむ人々の姿を描き、日本の近代小説のお手本となりました。
そんな漱石自体は、晩年、「則天去私(天に則り私を去る)」を理想としていました。
これは宋学や陽明学でいう「天理を存し、人欲を去る」という生き方が根底にあったことは間違いないでしょう。

エゴイズムから離れない限り、「天下国家のため」「社会のため」に生きるという利他主義に発想が及ぶことはありません。
自分の能力や才能を高めること自体は良いことですが、その発するところ、目指すところがどこなのかをきちんと見極めていかないと、単なる自己満足に終わることになります。

「まず自分が『克己復礼』を心掛けることで、天下国家は皆、礼に帰り、天下太平、泰平和楽の世となる」というのが、儒教のストイシズムが目指すところです。
そのために、えざるところを戒慎し、聞かざるところを恐懼するのです。

君子はその独りを慎む。

『礼記』大学より

誘惑の多い現代人にとって、このような生き方は実に厳しいものと言えるかもしれません。



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