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早稲田の古文 夏季集中講座 第3回 西行「詞書(ことばがき)の世界」「崇徳院 御謀反御出家」

「詞書(ことばがき)」とは、「和歌の前に置かれて、詠作事象や歌題を示すもの」と言われています。(『西行』」西澤美仁編 角川ソフィア文庫)

歌題とは主題のことです。「詞書(ことばがき)」は主題だけではなく、和歌の詠まれた「場」を文学的に語る傾向が強くなった、と言われています。(同書P34)

言わば、「場」と言う外部構造が、主題や歌題といった内部構造に内在化しているのでしょう。「場」の必然性と歌題の文学性が互いに共鳴し合っていると思います。

西行の詞書は、この「文学性が和歌を凌ぐほど豊かだった。」と言われています。(同書P34)その中で注目したいのが、「崇徳院御謀反出家」と訳された詞書とその和歌です。

「世の中に大事出で来て新院あらぬ様にならせおはしまして御髪おろして仁和寺の北院におはしましけるにまゐりて兼賢阿闍梨(けんげんあざり)出であひたり。月明くて詠みける
 かかる世に かげも変わらず すむ月を 見るわが身さへ 恨めしきかな」(山家集雑 1227)

詞書と和歌の現代語訳は次の通りです。(同書P172)

「崇徳院後謀反(すとくいんごむほん)御出家という想像を絶する大事件が起こるこの世の中に、いつもと少しも変わらずに月が美しく澄んでいる。そんな月を美しいと見てしまう私までが、我ながら恨めしい限りである。」

西行は崇徳院崩御の三年後、配流先の讃岐の白峯を訪れます。後に、上田秋成の『雨月物語』の「白峰」で有名になったところです。西行亡き後も、「問はず語り」の後深草院二条も出家して白峰を訪れています。

思うに、中世を貫く価値観は、無常観と幽玄の美でしょう。これは一方を否定し自らを肯定するという二者択一的なものではありません。強くなったり弱くなったりして共鳴しながら融合したり分離したりするものだと思います。

上皇が乱をおこすというおよそ和歌の優美な世界とは無縁の武士(もののふ)の荒々しい世界の出現に痛切に世の無常を感じたのでしょう。

影も変わらず澄む月は仏教で言う所の真如の月、永遠不滅なる仏性の顕現、幽玄にして優美なるものの象徴なのでしょう。(『山家集』後藤重郎校注 新潮日本古典集成参照)無常なる世の動きと無常なる我が身、我が心のはざまに恨めしさを募らせたのでしょう。

まさに「国破れて山河あり」の心境なのでしょう。自然の運行は、北極星の周りを回る星々のごとくかわらずとも、人の世は変わる。天道不変、天壌無窮の恒常性があったとしても、人の世の無常性に、はさまれた、魂は行き場を失いあてどなくさまようのです。

我が身、我が心はどこに行くのか、我が魂はどこに行くべきなのか。杜甫や李白も同じでしょう。漂白の思いやまず旅に出た芭蕉も同じです。山頭火(さんとうか)や放哉(ほうさい)も同じでしょう。

同じことは近代の明治天皇崩御の際にもありました。乃木将軍殉死と「先生」の自殺をかさねあわせた夏目漱石の「心」、森鴎外の「興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」、明治天皇という時代精神の象徴を失った明治の知識人の喪失感も同じです。

時代精神と大いなる時代のパラダイムという外部構造の大きさはその中に生きている人は気づかぬものです。失ってみてはじめてその大きさがわかるのです。まさに老子で言うところの「大音希声・大象無形」なのです。

外部構造の崩壊と共に内部構造もくずれるのです。人はその虚しさ・痛み・喪失感・苦悩から文法や文学に永遠なる魂の救済を求めるのです。これが人たるものの必然なのでしょう。



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