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"ぼく"と”きみ”の関係について-『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

 今回は、詩人・最果タヒの詩集『夜空はいつまでも最高密度の青色だ』(最果タヒ著/リトルモア社)について書きたい。

 最果タヒは1986年生まれ、2004年よりインターネット上で詩作を開始、後に詩誌『現代詩手帖』に投稿を始め、現代詩手帖賞受賞。初刊行の詩集『グッドモーニング』で中原中也賞受賞。詩人、ともに小説家として活動している。


 詩集の全体を解釈するためにまだ言語化できていないので、僕がこの詩集の中で特に面白いと思ったものを紹介したい。それは、『新宿東口』『4月の詩』という二つの詩だ。



 フラニーとゾーイ。登場人物と登場人物。どうせ嘘だ、生きても死んでもいない存在だ、そう決めて見つめた現実は踏み潰してもいい紙くず。きみも。あいつも、あのこも、踏み潰してもいい紙くず。(「新宿東口」より)


 「新宿東口」は、喧騒と罵声と人混みに埋もれる“ぼく”が、誰かのドラマのために消費されることを嘆いた詩だ。
 僕は、大多数の人を前にすると、なるべく多くの人に受けとめてもらえるような、上っ面の態度を取ってしまう。それは、一人一人にスポットライトを当てるような、その人個人の特徴や人生を理解して話す態度と真逆にあるようだ。人間をモノと同じように捉えている感覚のように思えてくる。僕は時々、その感覚をとても残酷だと思って憂鬱になったりしちゃうんだー。 「僕にとってあの人たちは、僕の人生の中の登場人物。でも、僕も、彼らの人生の中の登場人物。」と、思い思われているかもしれないことに気がついてしまう。

 もしかしたら、昨日あんなに大笑いしあった友達も、たくさんの人々に向ける態度と同じように、僕に接していたのかもしれないと考えてしまって。そして自分もそのように接した気がして。



 花の向こうに星が見える。星は死んだら消えてしまうけど、そのことに誰も気づかないで、光がずっと残ってく。羨ましいときみが言うけど、きみの光が残ったって、私が、死ねって言える時間がないなら、嘘だよって笑えないなら、意味ないんだよ。死なないで。(「4月の詩」より)


 一方、「4月の詩」は、「新宿東口」のようなシチュエーションを取り払った、“ぼく”と“きみ”の関係が描かれている。
 僕を含め、近現代の人はとかく、自分の存在意義や役割を見出そうとし、葛藤しているように感じるのだ。この詩で登場する “きみ”は、その葛藤の中で、「星のように自分の光を残す」ことを願っている。でも、それは“きみ”が路上で見知らぬ多くの人を殺すような、相手に傷跡を残すような、他者に対してあまりにも一方的すぎる態度ではないだろうか。
 “ぼく”が欲しているのは、“ぼく”と“きみ”という対面的な関係でしか築けない瞬間。「死ね」や、「嘘だよ」という言葉でいいから、“ぼく”と“きみ”がコミュニケーションし、互いに共鳴しあえる時間を“ぼく”は願っているように、僕は考える。


 互いに一方的な態度で向かい合う人間関係で満たされた社会の中で、最果タヒの描く、“ぼく”が“きみ”に望むような人間的な関係が、僕には一際輝いて見える。僕は、最果タヒの詩を読むことを通して、自分の上っ面をなるべく剥ぐように努力できる気がしてくる。そして、しっかり相手と向き合って話せる気がしてくるのだ。

 全体的に、最果タヒの詩は、良い意味でも悪い意味でも即物的だと僕は思う。ひたすらに即物的な想像力で成り立っている詩ばかりで、それ故に、最果タヒは決してあいまいなイメージを打ち出さず、具体的な詩に徹している。
 断定的な言葉から生まれる、最果タヒの詩特有のビビッドさに、僕は、時にハッキリした共感を持つ一方、詩を理解しきれない自分に葛藤する時があった。でも、そういった葛藤や、紙上の言葉との対話を通じて、自分では思いもしなかった、“情緒の超新星爆発”が起こっていたはずだ。


 最果タヒの詩の中に潜む、たくさんの言葉に裏付けされた“エモさ”に、今日も浸る。

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