閾値を超えた刺激は感覚をバグらせる、という話

毎日美味しい焼き肉を食べていると、その焼き肉の味に慣れてしまい、感動が薄れるという。「味」という刺激は変わらずそこにあるのに。

人間には、刺激を受け取ったあとの「反応」に慣れが生じる機能がある。これは脳が日々の処理を楽にするための効率化の一つで、まぁ、「いちいち反応しなくてええやろ」と思うほどに繰り返された刺激には、人はさほど反応を返さなくなる。

思うにこの機能は、人が人としての限界を超えるために備わっているような気もする。ただ、これはあくまで僕が生きるうえで必要だった一つの視点に過ぎず、人に強いる気は毛頭無い、と先に断っておく。

悲しいという感覚をバグらせてしまった人の末路

生まれながらに怒声と暴力が飛び交う環境で育ったからか、14年の間生活保護家庭で育ったからか、はたまた学校でイジメられたからか、理由は判然としないけれど、僕は「悲しい」という反応に慣れすぎている。

この刺激を受けたら明らかに悲しむだろう、という刺激を受けても、僕は無反応でいることが多い。妙に冷静な自分が姿を現し、状況を整理したうえで次に取るべき行動は何か、と思考を巡らせる。無意識的な反応だ。

長きにわたる緊張下での生活で身に付いてしまったスキルと言える。マイナスな刺激を受け取ったとき、慣れによって悲しみを帳消しにするだけでなく、多くの場合セットで付いてくる僕へのデメリットや生存を脅かしかねない影響を回避しようと思考が事態を先回りし、先手を打とうとする動きだ。

そしてすべての事態が収束したあとに、僕は強烈な悲しさに襲われる。先ほど「悲しみを帳消しにする」と言ったけれど、生じるはずだった感情は何らかの形で僕のもとへ帰ってくる。慣れだけで消去できるものではない。怒りや事態の正当化といった僕に都合の良い形に変換されて、悲しみは帰ってくる。

そのとき、僕はその感情を抱えようとするのだけれど、抱えきれなかった悲しみは世界に対する評価として再変換される。「こんな事態が起こる世界は狂っている」という具合に。

ここまで読んで分かるように、すべては僕の一人相撲で、舞台に上がっている演者は僕だけだ。僕はきっと僕の感情と戦っている。ひとえに、悲しいときに「悲しい」と言えなくなってしまったが故に。

抱えなくていいものを抱えて歩く人へ

僕のケースに限らず、もう少し広く言えば「当たり前の感情を当たり前に出せない人」は少なくない。そういう人は往々にして、抱えなくていいものを抱えてしまったために、素直な感情の表出がうまくいかなくなっているような気がする。

そういう人が選べる道は、きっと3つくらいだ。

・感情を素直に出せるよう意識する(小さな心の揺れに気付く)
・感情への慣れを自覚した上でよく生きる(人を弱いと思わない、自分を強いと思わない)
・慣れを特殊スキルとして活用しつつ難易度の高い世界で活躍する

1つめの道は幸せになれそうだし、2つめのルートは慣れを無くそうとせず生きるぶん、色々なものが見えてきそう。3つめのルートはお金持ちになれそうだ。

これ以外にも道はあるだろうし、探してみるのもいいだろう。いずれにせよ、自分の好みのものを選べば生きづらさに悩むことは減りそうだ。ちなみに僕は2と3を選んだ。

僕らがたどり着く感情のゴールはどこか

多分だけど、感情への慣れを強いられた僕らにとって、過去の受容や感謝はひとつのゴールとなる。

感情への慣れを生み出したトラウマティックな出来事を何事もなく人に話せるか、自分の中で心から感謝できるか、受け入れて未来を見ているか、といったあたりがサインになるんじゃないか。

僕はまだゴールにはたどり着けていないけれど、少しずつ、本当に少しずつ進んでいると思う。すべてが終わったら、これまでこらえていた涙も笑顔も怒りも悔しさもすべて吐き出して、心の奥で震えている幼い頃の僕に会いに行きたい。

「もう大丈夫だよ」と言えるその日まで。
僕は三千世界の烏を殺して進む。

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