推しはなかったが、解釈に共感した 「推し、燃ゆ」(宇佐美りん著、河出書房新社)
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相互フォローのきくちしんいちさんのnoteで紹介されていた本を読了。
いろいろ思うところがあった。
きくちさんの記事は、先日の某バンドの炎上について。
本書を読んで思ったが、私には、「推し」と呼べるものはないように思う。
昔から飽きっぽくて、一つのものをすごい「推した」ということがあまりない。興味を持つことはあるが、すべてが「ニワカ」という感じである。
したがって、本書の主人公のような驚異的な「推し」というのは、とてもできる気がしない。ただ、本書の主人公の場合、「推し」の背景には、彼女にとっての「重い」事情があるようにも思われる。
もっとも、本書の主人公の「推し」のスタンスについては、とても共感できた。
彼女の「推し」のスタンスは、「作品も人もまるごと解釈する」である。
ラジオ・テレビの発言を書きつけて、ファイルが20冊以上に及ぶ。CD、DVD、写真集は保存用と鑑賞用と貸出用に3つずつ買う。放送された番組は何回も見返す。
彼女ほどの情熱はないが、「解釈」というモチベ―ションにすごく共感した。
それは、純粋に楽しむ前に、「解釈」を楽しんでいるのではないかという気すらしてしまう。
彼女は、解釈したものを記録してブログに公開している。
この感覚もすごくよくわかる。新しい発見は記録に残したくなる。
新しい情報を得ることで、自身の解釈をアップデートする感覚。それに熱中したくなる感覚はよくわかる。
では、「解釈」とは何か。私の場合、どうしても、そういうことが気になってしまう。
「解釈」というのは、「収集した情報や事実を理解し、意味づけする」というプロセスを辿ると思う。
この「理解し、意味づけ」というのは一筋縄ではない。
「情報や事実」と「解釈」は何が違うのか。
微妙なところもあるかもしれないが、一言で言ってしまうと、「情報や事実」は、人によって変わらないはずだが、「解釈」は人によって変わりうるはずである。
「情報や事実」はもしかしたら、フェイクもあるかもしれない。
一方で、「解釈」は人によって違いうる。解釈する際に収集する情報や事実は、選別されているはずである。また、「理解し、意味づけする」思考過程は、人によって違いうるはずである。
本書の主人公の場合、収集する事実と情報がすさまじい。また、何度も繰り返し録画を見ており、その洞察も深い。そこから生まれた「解釈」は強固である。さらに、新しい情報・事実を次々と得て、「解釈」はより強固にアップデートされる。
もうひとつ。
「解釈」というのは、人によって違いうるのであるが、「解釈」そのものも変わりうる。新しい事実や情報が入る、あるいは新しいロジックや思考回路を知ることで、理解や意味づけは変化する。
また、場合によっては、「解釈そのもの」の対象も変わりうる。そうすると、年齢を重ねるごとに「解釈そのもの」の対象は広がっていくはずだが、実際のところ、過去の解釈は結構忘れるので、広がっていなかったりすることもある(笑)。
だから、解釈は一義的なものではなく、「肯定的なもの」も「否定的なもの」もありうるはずである。
この文は、割と序盤に出てくるのだが、私は、本文を読んで、彼女は、「推し」をどう解釈したのか?が気になりながら読み進めることになった。
そうすると、彼女は「どのような情報や事実を抽出し、排除したのか」、「どのように理解し、意味づけしたのか」、そして「何を解釈したのか」。こういうことを追ってみたくなってくる。
文章自体が、引き込むような文章で、比喩表現も効果的なので、ついついそちらにひかれてしまうが、彼女は確かに、一貫して「推し」を解釈している。そして、たくさんの情報や事実を抽出する一方で、ある情報や事実を排除して意味づけをしている。そういうふうに見えた。
彼女の「解釈」は、どのように始まり、どのように変わったのか、そして、本書のあとも「解釈」は変わり続けるはずである。
ここまで読んで、自分は「解釈」の対象がどんどん変わってしまうので、「推し」が生まれないのかなと思った。
小説を読んでいても、純粋に楽しむ前に、「解釈」のほうに興味がいっているのではないかという気がしてしまう。
「推し」は定まらなかったけど、「解釈」は面白いということを確認して、あんまりかかない小説の読書感想文もまた書いてみようかなと思いました。そんなかんじです。きくちさんありがとうございました!
ということで、「今日一日を最高の一日に」
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