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91年生まれ、小野木のあ

妹に誘われて映画を観た。

「82年生まれ、キム・ジヨン」

私は原作の小説を読んでいない。
映画を観終わった後、妹と二人で食事をしながらたくさん話をした。
原作を読んでいた妹から、映画と小説の結末の違いを聞いた。
映画のシーンを振り返りながら、私たちの日常についての話もした。
ジェンダーについて、誰かと深く話したのは初めてだった。

救いはどこにもないね、というのが私たちの出した結論だった。

救いも希望もないから、
せめて二人で美味しいものをたくさん食べよう。
幸せな食事を共有しよう。

そう言いあって、たくさん食べた。
呑まなきゃやってられないね、と笑った。
二人ともお酒が進んだ。

妹と別れ帰宅したあとも、フラッシュバックが止まらなかった。
映画の、ではない。
私自身の記憶のフラッシュバックだ。
苦しい。悔しい。悲しい。気持ち悪い。

映画を観てから二週間近く経った今も、もやもやと胸の内に残る感情がある。
この感情から、目を逸らしてはいけないと思った。

だから、書きます。

幼少期に感じた違和感

私は91年生まれ。
信州の田舎町でりんご畑に囲まれて育った。
四歳のとき父の実家近くに引っ越すことになり、一家で東北の山奥の町へ移った。
関西圏出身の母にしてみれば、自分の実家から遠く離れた、知り合いも友人も一人もいない土地への引越しを余儀なくされたことになる。
このとき、妹は生まれたばかりだった。
母が長期間に渡り強いストレスに晒されたことは想像に難くない。

父の実家は山の中にあった。
閉ざされた土地で、人間関係は煮詰まり、血縁者の結びつきやしきたりは前時代的だった。
法事などの親戚の集まりの際、「男」と「女」の役割が明確に決められていた。
「上の間」と「下の間」があり、男性は上の間で酒を酌み交わし談笑する。
台所に立つのは女性のみで、作るのはもちろん給仕やお酌も女性の役割だった。
女性たちは料理と給仕の合間に、台所と直結した下の間で食事をかき込むのだ。
上の間から「酒がない」「グラスが足りない」等と常に声がかかるので、ゆっくり食事をすることなど叶わない。

子供たちも男女で分けられた。
男の子たちは上の間で食事をし、女の子たちは下の間で台所仕事の手伝いをするのだった。

女の子の私は、上の間に料理を運んだりお酌をして回ったりした。
そうすると、酔っ払った親戚のおじさんたちは褒めてくれた。

「のあちゃんに注いでもらうと美味いなぁ」
「のあちゃんは良いお嫁さんになるぞ」

父の実家では、私の両親も無言で男女それぞれの役割に徹した。
実家にいる父を見ると、それが本来の姿なのかもしれないと思わされた。
母は、ただ黙って「嫁」に徹しているように見えた。

私たち一家は、父の実家の隣町で暮らしていた。
やはり狭い町で、町中がお互いの家庭環境を把握しているような環境だった。

幼い私は、父に連れられて時々銭湯に出かけることがあった。
なにしろ娯楽のない町なので、銭湯に行くことは「休日のお出かけ」なのだった。
小学校低学年まで、私は父と一緒に男湯に入っていた。
「女の子」だから台所仕事を手伝わせるけれど、「子供」だから男湯に入って当たり前、そういう土地だった。

銭湯の客は皆、知り合いだ。
近所のおじさんや同級生のお父さんたちの前で身体を洗うのが、私はとても嫌だった。
湯船に浸かったおじさんたちが「ちゃんと洗えよ」と笑いながらこちらを見ているのが、嫌だと思っていた。
でもそれを嫌と言ったことは一度もなかった。
私には、物心ついてから父に文句を言ったり口答えをした記憶が無い。
私にとって父は厳しく、恐ろしい人だった。

そのうちに、弟が生まれた。
親戚中が喜んだ。
男の子が生まれたことはとても喜ばしいことなのだった。
「三度目の正直」という言葉も聞いた。

思春期の不快な出来事


私が小学校高学年になった頃、父の転勤で少し開けた町に引越しをした。
完全に山の中の生活だった頃よりは文字通り開けた生活になったけれど、その町も典型的な村社会だった。

中学生になると、親戚の集まりで「女」の役割を与えられた。
もう「お手伝い」ではなかった。
お酌に回ると、足を撫でられたり手を握られたりすることもあった。
吐き気がするが、それを笑って上手に流すことも親戚付き合いの一部なのだった。

高校は、隣市の進学校へ通った。
ぼんやりした性格の私が、自分が他人から「女の体」として見られていることを意識し始めたのは高校生になってからだった。

初めて痴漢に遭遇したのもこの頃だった。
書店や図書館の棚の間で、知らない男の人が全身を擦りつけるように密着させながらすれ違っていくことが何度もあった。

私はいつも、驚きと恐怖で何も出来なかった。
無知な私は、初めはその行為の意味さえ分からなかった。
「痴漢行為」であることを認識してからも、何故自分がそのような目に合わなければならないのか、まるで理解できなかった。


高校で入った部活は、部員の8割が男子だった。
同級生にいたっては、私以外の全員が男子生徒だった。
皆、仲良くしてくれたし、私が取り残されないように気遣ってくれていた。
しかし、男子の集団に完全に溶け込むことは出来なかった。

そして時折彼らが「女の体」を見る目で私を見ているのを感じた。
男子だけで盛り上がっていて、私が近づくとぱっと話をやめてニヤニヤ笑うことも幾度となくあった。
私はそれら全てに気づかないふりをした。
彼らに同化しようと必死だったのだ。
下ネタ、もっと突っ込んだ卑猥な話や下世話な話題にも怯まず、むしろ積極的な態度で会話に入っていった。
「私、そういうの平気だから」と言い続け、自分自身をも欺こうとしていた。

「若い女」であること

高校を卒業した私は進学のために上京した。
初めて電車内で痴漢被害を受けた。
眩暈がするほどの強い怒りを感じながら、それでも私は何もできなかった。

恐怖で声が出ない。
密着している周囲の人を押し退けて、視界の外にある痴漢の手を逃がさずに素早く掴むなど出来そうに無い。
死角から下半身を押し付けられている場合、どうやってそれを痴漢だと証明すれば良いのか分からない。
かといって満員電車では逃げ出すこともできない。
などとぐるぐる考え、自分に言い訳をしながらひたすらに耐えた。

あまりの悔しさと気持ち悪さに涙が出ることもあった。
彼らにとって私は「若い女の体」なのであって、「人間」では無いのだと思った。

痴漢について他人に相談しても、
「服装に気をつけろ」「時間や車両を変えろ」「痴漢にあったら降りるしかない」等と言われるだけだった。

アルバイトを複数始めて、社会人との接点が急激に増えた。
「女性は結婚と出産があるから」というような言葉を聞くようになったのもこの頃からだった。
女性の人生には結婚と出産が想定されるのが当たり前で、そのために退職もしくは休職することも前提にあるのだった。

学生だった私は、まるで他人事のようにそれらの言葉を聞いていた。
結婚にも出産にも興味の無い自分に降りかかってくる言葉とは、とても思えなかった。

社会に出てから感じる壁


「女性である」ゆえに浴びせられる言葉。そして制限。
不快なもの、違和感を感じるものは無数にある。

「女性は結婚/出産があるから○○出来ない/任せられない」
「あなたはこれから出産する身体なのだから○○しては駄目」
「結婚/出産するために○○しなさい」
「女性の幸せは結婚/出産にある」
これらは男性からも女性からも言われることだ。

山間の村にある診療所で働いていたときに
「村の男と結婚して子供を産んでくれ」
と全然知らないお爺さんに言われたことが、この類の言葉の中では一番強烈に印象に残っている。

同じ診療所で頻繁にレントゲン撮影の補助に入っていた時期に医師に言われた
「小野木さんは子供産む予定あるんでしょ、だったらあまり放射線浴びないほうが良いんじゃない」
という言葉も、あまりに腹が立ったので記憶から消えてくれない。


その後も、職場では
「結婚の予定は無いし、願望も無い」と言っているのに、
「結婚や出産でいなくなるかもしれない人」として扱われる。

「やっぱり女性じゃないと」「女性なら大丈夫」という理由で雑事を押し付けられ、接待や接客では「男性の望む女性像」を求められる。

これが日常で、ずっと、ずーっと、続く。
私は何度か転職と引越しをしているのだけれど、どこに行っても根本は同じだと感じる。

田舎では露骨で前時代的な表現がそのままぶつけられる分、印象が強いだけなのだ。
都会では「風潮的/社会的にまずい」から気をつけている人が多いけれど意識はほぼ一緒で、ある意味こちらの方が悪質なこともある。

近年聞こえてくる
「女性の権利が守られ過ぎている」
「女性の権利主張が激しすぎる」
という意見は、意識が変わらないままジェンダーレスの型にはめ込まれ抑圧された人達によるものなのではないかと思う。

こういった主張をするのは、実際に自分自身が被害にあったり、不利益を被った人なのかもしれない。
しかし私はこうした意見に触れるたびに心底げんなりする。
現状とあまりに乖離した意見に、反論する気も起きない。

なによりも心が削られるのは、自分が「一人の人間」として扱われていないことをふいに突きつけられることだ。
自分は「人」として話しているつもりだったのに相手は私を「男性の思う女性像/女の体」と認識している、ということが分かった瞬間のダメージは大きい。
そしてその場合、相手は無自覚なことがほとんどだ。
訂正、指摘したところでどうせ分かってもらえない。
そうして私は違和感、不快感、憤りから目を逸らしてきた。

私に出来ること、私がやるべきこと


ここまでの文章でお分かり頂けたと思うが、私は憤りを感じているだけで何一つとして問題解決のための行動を起こしていない。
むしろ迎合してきたと言うべきか。

自分への言い訳を積み上げて、幼少期の陰鬱な記憶に蓋をし、痴漢に無言で耐え、セクハラは笑って受け流し、不快な情報からは目を逸らす。

ずっとそうやって生きてきた。
しかし、冒頭に触れた映画を観て、このままでは駄目だと思ったのだ。

妹と一緒に出した「救いはどこにもない」という結論に変わりはない。
社会の意識が大きく変わるとは到底思えない。
「女性の社会進出」という言葉が無くなる日がくることを想像出来ない。
悪化することはあるだろうけれど、解決は期待できない。
残念だけれど、私は自分の経験からそう確信している。


しかし「社会は変わりそうにない」ことと、私が積極的に沈黙し自主的に忍耐に走るのとは、別問題だと思ったのだ。

ぼんやりした性格で頭の回転が遅い私は、言い争いが苦手だ。
他人の意見を否定したり、その人の人間性に関わる部分に踏み込んで行くことに強い抵抗を感じる。
過去に過剰適応の性質を指摘されたこともある。
それは私の性格であり特性であるから、今後も劇的に変わることはないだろう。

そんな私に出来ることは何か、やるべきことは何か、考えて出した結論は「迎合の姿勢を改める」ということだった。

相手が上司だろうが先輩だろうが親戚だろうが男だろうが女だろうが、
嫌なことは嫌だと言う。
明らかな差別発言やセクハラを笑って流したり、諦めて受け入れたりしない。

「あなたはそう思っているかもしれないけれど、私は違う」という姿勢を明確に示す。

ささやかな決意だけれど、そんなことすら今までの私には出来ていなかったのだ。
私のような考えで沈黙と忍耐に走る人間の存在が、歪な社会構造の形成に加担してしまっていることを「キム・ジヨン」のおかげではっきり自覚した。

私の小さな変化が社会を変えることはないだろう。
でも、もしかしたら職場や親戚付き合いの雰囲気は変わるかもしれない。
私の態度が変わることが、近しい誰かには影響するかもしれない。

そしてなにより、私自身が自分の性を好きになれるかもしれない。

そのために、私は自分を変える。
本記事はその決意表明だ。

2020.10.30 小野木のあ

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