『いのちの車窓から2』読書感想文
はじめに
私は、星野源さんの書く文章が好きだ。
もしかしたら、源さんのする表現の中で、「エッセイ」が1番好きかもしれない。
そもそも、源さんを「有名な歌手・俳優」としか認識していなかった私が、明確に彼を尊敬や憧憬の対象として見始めたきっかけが、気まぐれで読んだ『そして生活はつづく』だった。
これまで色んな人のエッセイを読んできた中で、「興味を引く経験」や「思考回路」に感心したことはあっても、「文章表現」や「構成」にまで唸ってしまったのは、『そして生活はつづく』が初めてだった。
というのも、今まで読んできた「文筆家」が書くエッセイは、"小説のように肩肘張らないこと"を意識して書かれ過ぎていて、経験自体やその切り取り方の面白みに欠けることが多い印象だった。
逆に「芸人などの別ジャンルの表現者」のエッセイは、せっかく経験や思考内容が面白くても、「笑わせたい」という邪念で文章を捏ねくり回しすぎていたり、語彙が足りなくて真意を100%で表現しきれていないことが多い気がした。
どちらも、ファンにとっては「それがいい」のだろうが、読んだことでエッセイからファンになることはなかった。
だから、エッセイからファンになったのは、後にも先にも彼1人である。
タイトルや経験で興味を惹きつけ、
一言で端的に結論を言い、
その肉付けをしていく過程で様々なユーモアを挟みながら、
きちんと詩的な表現や独自の視点での物事の捉え方も入れ込み、
でもやっぱり最後はクスッと笑ってしまうような一文で締められる。
文章表現として見事すぎて、読み終わった後に感動すらした。
それから、源さんのエッセイは全部読んだ。
彼の文章が好きになると、必然的に彼が書く詞も好きになり、音楽活動も少しずつ追いかけるようになった。
一瞬一瞬で取捨選択する言葉に惹かれて、ラジオも聞くようになった。
そうやって彼への解像度が上がっていくたび、読み返すエッセイの解釈が自分なりに深まっていくのを感じ、彼自身のことが好きになっていった。
そんな中、ワクワクしながらページを開いた今回のエッセイ。
読みながら、「この人には一生勝てない」と思った。勝ち負けの話ではないのだが、そう思った。
理由は、憧れるほどに自分との差を痛感するからだと思う。
前作の「いのちの車窓から」のあとがきにこんな文章がある。
何故彼の文章が好きなのか、何故自分の文章が未熟なのか。
その全てがこの文章に詰まっている気がして、読みながらハッとさせられた。
私の文章はまさに「こう思われたい」のオンパレードで、エゴとナルシズムに満ち満ちている自覚がある。
だが、彼の文章は、自と他を上手に切り分けながら、俯瞰的なのに情緒的である。
「笑わせたい」みたいなエゴを感じさせない自然なユーモアは、本を読みながらでもクスッと笑えてしまう。
他で見たことのない詩的な言い回しは、紛れもなく彼自身から湧き出た言葉だと分かるし、等身大の感受性に、こんなにも心が動かされる。
彼こそが私にとっての文章のプロである。
自己承認欲求の発散にとどまらず、表現にまで昇華させられている文筆家。
だから憧れているのだ。
だから、「勝てない」なんて思ってしまうのだ。
そんな彼の文章が「行くとこまで行ってしまったなぁ…」という印象が今作にはあった。
それには、連載のスタイルを変え、一編一編の文章量が増加したことが寄与していると思う。
以前よりも詩的な表現の深みが増し、経験したことへの解像度も上がり、最強のエッセイに仕上がっていた。
全編素敵だったが、特に素敵だなと思ったエッセンスを何点かに絞って書いていきたい。
①奥様との関係
今回のエッセイでは、「妻」が作中に度々出てきて、何度もほんわかとした場面を作りだしていた。
例えば、食事中に動きたくなってしまう源さんを奥様が温かく包み込む「食卓」や、頑なに自分の歌を歌ってこなかった源さんに"この景色を歌にしよう"と決意させた、奥様との夜中の花見デートが描かれる「喜劇」などで、エッセイのキーパーソンとして登場する。
何が素敵かというと、奥様の名前やバックグラウンド等が絶対に明言されなかったこと。
その理由は恥ずかしいからとか、言わなくてもわかるからとか、そもそも書く必要性がないとか、色々考えられる。
だが、源さんにとって奥様はパブリックイメージの芸名ではなく、一緒の戸籍に入っている「妻」でしかないのだということを、改めて痛感させられた気がした。
だから、エッセイ中のエピソードには、芸能人とか関係なく、確かな普遍性があった。
受け入れてもらえるか不安だった"情けなさ"をなんてことなく受け入れてくれた幸せや、"一生続いてほしいな"と思うほど平和で大切な何気ない時間。
読む人が、自分自身の妻やパートナーに思いを馳せながら、各々の幸せだった場面を思い出せるような、素敵な文章だと感じた。
そして、自らの思い出を重ねることができるのに、芸能人としての奥様と源さんの顔や表情も同時に想像できてしまうのだ。
その姿で、食卓でのやりとりや夜に一緒に歩いている絵が再生される。
奥様との会話のテンポや相槌も、あまりに脳内再生が余裕で、ほっこりしてしまう。胸があったかくなる。
私たちと一緒の、大事な人と過ごす何気ない日常なのに、脳内で描ける絵が尊くて美しい。
尊いとかいう陳腐な表現しか出てこないのが悔しいのだが、「尊い」が1番適切な気がするのだ。
こんな幸せな夫婦に、私もなりたい。
②普通じゃないことへの肯定の仕方
「鬼型人間」では、源さんの体内時計が普通の人間と大きく乖離していることが描かれていた。
この編は、その時々の仕事内容によって朝型や夜型に擬態することへの苦悩が描かれるが、結局はニューヨークに旅行に行った際にぴったりの体内時計で生活できたことから、「自分の体内時計はニューヨーク基準なのだ」と悟るという帰結になっている。
ユーモアを交えながら書かれているが、これにすごく唸ってしまった。
『「何で普通じゃないんだろう」と落ち込む必要などない。全ては視点の切り替え方次第である。』という強いメッセージを感じたからだ。
自分の中で普通じゃないことは、別の場所の普通とか枠の中かもしれない。
「もっと広い視野で見ればいいじゃん」という、源さんのスケールの大きさを感じた。
そして、結論を導き出した地が"ニューヨーク"というのもオシャレすぎる。
③間違いを間違いと認めること
「今を生きる」では2014年の武道館復活公演の際の演出や「イエローミュージック」というジャンルを創出しようとした際の認識違い、ラジオでの童貞ネタなど、様々な過去の誤りを誠実に反省していた。
素直にすごいと思った。
こんなに沢山のことを成し遂げた人が、驕り高ぶらずに過去の過ちと向き合いながら、しっかりと今を生きていることが。
大人になればなるほど過ちを認めるのは難しくなるらしい。
過去の失敗を「若気の至り」みたいに、美化して心の片隅に置いておくのは簡単だ。何より自分が傷つかないし、どうせ過去は変えられないから。
だが、その時に傷つけていたかもしれない誰かに思いを馳せ、時を超えて自分を刺すのは、本当に思索が深い人にしかできない。
そういう人にだけ、今をより良く生きる権利があるのだと思った。
最近、SNSがしんどい。
誰かを攻撃するような文章ばかりが持て囃され、見ているだけで気が滅入る。
なぜ「自分は間違っていない」という絶対的な確信を持ちながら、平気で人を傷つけるような発言ができるのか。甚だ不思議だ。
過去を反省しながら生きていたら、自分の正しさに懐疑的になるはず。
SNSを見ていると、自分の過ちは棚に上げ、とにかくインスタントに誰かの上に立ちたいという人ばかりで、内省的な人なんていないんじゃないかと錯覚してしまう。
(この発言もその一種だと言われたらそれまでだが。)
もしかしたら、大人になってから源さんみたいに過ちを過ちと認められることは、特殊技能なのかもしれない。
たとえ周りが自らの過ちを認めない人ばかりで、自分の非だけ粒立って見えてしまう場合でも、私は過去を反省しながら今を生きたい。
より良い今を生きるために、過去を粗末に扱いたくない。そう思った。
④人との縁
アルバム名でもある「POP VIRUS」の章では、2人の人物との関わりが描かれる。
1人目は生田斗真。
「恋」のメガヒットにより、急に芸能界のど真ん中に放り出された源さんが、「有名税」なんて簡単な言葉で片付かないほど様々な傷つき方をしていく中で、助けを求めた相手として登場する。
彼は軽やかに源さんをハワイに連れ出し、久々の「何もしない」をプレゼントした。さらには帰国後、精神的に参っていた原因の一つである移動車に備え付けられた真っ黒の遮光カーテンを外させ、気分を軽くしてくれた。
この文章から、生田斗真という人間の素晴らしさがこれでもかというほど伝わる。
その上で、助けることが当たり前の2人の関係性にもグッときた。
きっと、源さんも生田斗真が助けを求めたら、同じように助けるのだと思うから。
1人ではどうしても抱え切れない時がある。
そんな時、当たり前のように助けてくれたり、助けたいと思える友人は、どれくらいいるだろうか。
相手には、助けたいと思ってもらえているだろうか。
もう1人の登場人物は、川勝正幸。
ポップカルチャーのライターで、著作で源さんに大きな影響を与えた上で、実際に交流を持つようになってからは息子のように可愛がってもらっていたらしい。
「POP VIRUS」というアルバム名は、川勝さんの著作の前書きに登場する言葉であり、そこに無意識のうちにインスピレーションを受けていたという登場の仕方であった。
川勝さんに限らず、源さんは、つくづく人との縁を大切にするのが上手だなと思う。
今作には他にも、「細野さんと行ったジョナサン」「東榮一さんのお見舞い時に渡された本の一節」「昔働いていた沖縄居酒屋の店主から学んだこと」など、様々な"人"とのエピソードが出てくる。
我々は日々、色んな人と新しく出会ったり、別れたりしている。
その営みの中で、何か印象的な出来事が起きた瞬間は新鮮に何かを得た気になれるのだが、その思いは、深く心に刻まないと、いつか忘れてしまう。
そうやって、知らず知らずのうちに人との縁やそこから得た何かを、無駄にしてきてしまったのだと思う。
でも源さんは、人との縁やそこから得た何かを、きちんと創作に繋げている印象がある。
人との営みにきちんとリスペクトを持って、命を吹き込みながら大切に日々を生きている感じがする。
そして、その血が通った付き合いにリスペクトを感じた人々が彼のもとに集うから、彼の人生がより豊かに彩られていくのだと思った。
私には今、有難いことに仲良くしたいと思える人がいる。
そのことにもっと幸せを感じながら、人との縁をより大切に生きていきたいと思った。
手を差し伸べたり、差し伸べられたりを繰り返し、彩り豊かな人生にしていきたい。
⑤いのちの車窓から
前作にも登場した表題エッセイの続編。
ここでは、源さんの考え方・感じ方が大きく変わったことが示唆されていた。
昔の源さんの考え方は、「運命はだいたい決まっているので、受動的に流れに身を任せる他ないのだが、覗く窓を変えることで、景色を能動的に楽しむことはできる」というものだった。
それに対し、今作では、たまに訪れる「記憶喪失に類似した社会活動のフリーズ状態」の意味を突き詰めていく中で、「自らを運んでいた列車からも解き放たれ、何もない野原に立っている感覚に陥ることで、途方もない自由を享受していることに気づき、それでも今の生活を選び取ったのだ」という実感を得ていた。
諦めたのではなくて、自分で動かすという強い衝動でもなくて、「悟った」としか言いようがない境地である。
読みながら、仙人のように人間としてのステージが一個上がったかのような感覚を受けた。
列車の進路を死ぬ気で変えようとした時期。
死ぬ気でやったら本当に死にそうになった時期。
その反省をもとに、ただ身を委ねることも大事だと考えるようになった時期。
同じ列車にたまたま乗り合わせた様々な人に傷つけられたり、はたまた心を通わせたりする時期。
様々な時期を乗り越え、彼がたどり着いた先が「独りで佇む広い野原」なのか………と、読みながら、納得してしまった。
これに対し、賢しらぶって分かったような感想を書くこともできるが、残念ながら私はそこまで悟れていない。
何故なら、私はまだ列車の操縦をしているような感覚でいるから。
受け身で生きているだけの、窓を変えるだけの人生では、星野源にはなれないと思うから。
自分で考え、試行錯誤して、表舞台に立って、挫折も成功も味わうことは、寧ろ列車の操縦に似ていると思うから。
車窓の数が視点の数だとするならば、今はきっと前方と後方にしか窓がついていないのだと思う。
いつか、水族館のトンネル水槽みたいに、360°鏡張りになった時、星野さんみたいな悟り方に近づけるのかもしれない。
いや、それも違う。
この例えで言えば、水の中で突然目が覚めた瞬間か。
そんな感覚になるのは、何年後のことなのだろうか。
何なら、その感覚に辿り着けるのだろうか。
全く分からない。
とはいえ、職を変えたり、付き合う友達が安定してきたことで、最近はやっと車窓をある程度楽しめるようになってきたような気もする。
だが、まだ必死に運命を変えようとハンドルをガチャガチャやってる気もする。
窓を見たりハンドルを動かしたり、日々が忙しなくてしょうがないが、読みながら、若いうちはそれでいいのだろうなとも思った。
源さんが悟ったのも、そういう時期を越えたからこそなのだと思うから。
私は今、かつての源さんほど死ぬ気で何かに情熱を傾けてはいない。
でも、何かに熱中してる時が1番幸せだということは分かっている。
星野さんでいう「アメーバ」、オードリーの若林さんでいう「没頭」の状態。
これらの現象に救われたことが何回もある。
だから、追い求めて、追い求め続けて、その感覚をなるべくたくさん味わう。
それが幸せなんだと信じながら、今を生きる。
それしかできない。
車窓を増やして、列車を動かしながらでも、もっと自分の人生を面白がれるようになりたい。
その時々でたまに振り返りながら思索を重ねて、いつか、いつか源さんのように自分なりの感覚で悟ることができたらなぁ。
この章でも、作品全体を通しても、そんなことを思ったエッセイだった。
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