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共同体の横糸〜謠人和楽『民謡訪ねて300m〜唄に生きる〜』感想書評〜

1月14日の京都文フリで買わせていただいた本。八軒屋浜にある石碑が登場すると聞いて読みたくなった。前の職場で八軒屋浜に関係する仕事をしていたからだ。

身近にあって、自分の苦痛を和らげ、心のバランスが崩れそうな時にもそれを立て直すのに役立つものである。また、人と人が集まってひとつの共同体のようなものを形成し、その中で同じ対象を共有し、皆で温かい空間を作り出し、楽しみや悲しい気持ちを分かち合うためのもの。そういう認識なのである。

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著者は信仰と民謡の類似性を上のように述べる。優しい目線だと思う。高校日本史並みの知識だが、人類が定住農耕生活を始めてこれから、共同体というものが生まれた。特に水田は水利権の問題もあり、隣人との競争も避けられない。我田引水という四字熟語の成り立ちも納得できる。共同体は生活の安定も生むが、身分の上下や望まぬ労役、妬み嫉み、軋轢なども引きつれてくる。その苦しみを癒すもの、共同体を一つにするものが人間には必要だ。

自分が民謡と聞いて思い浮かぶのは労働歌だ。田植えや漁業、鉱業など人手の要る労働時に歌われていたものだ。ソーラン節などが有名だろう。映画もののけ姫でもエボシのタタラ場で女たちが歌っていた。辛い気持ちを誤魔化して、互いを励まし合う歌。やがて土地や出自の代名詞のようになっていくものもある。共同体をゆるく結びつける役割も確かに果たしているだろう。

信仰はどうだろうか。細かいが、宗教と信仰を区別する必要があると思う。個人的に宗教それ自体に共同体の目線は無いと思う。著者が信仰を発想するもとになった仏教において、開祖の釈迦は何不自由ない王族の生まれだったが、人生の真実を求めるために出家する。ここにあるのは個人の探究心である。そして釈迦のもとに集い、彼を崇拝する弟子や人々によって信仰が作られる。信じて仰ぐと書いて信仰だ。信仰を横糸にしてまた共同体が作られる。

高校生ぐらいの頃、天皇制について考えていたことを思い出す。当時は右派左派など難しいことは考えていなかったが、ただ今でも自分は天皇家という存在は割と好意的に思っている。「この人が幸せを感じていたら良いな」「病気や不幸がないと良いな」と思える存在がいるだけで、何となく良い。推しという言葉とは少し違う。幸を願い、不幸を悲しむ対象として存在してくれるということは、言い換えると、隣人を愛する気持ちの元素となりうる。

現代は共同体の意識は希薄だ。個人主義、自由主義と多様化など理由はいくつもある。それでも人間が生きていく以上、他者との関わりは避けられない。他者を敵味方だけで考えるのは勿体無い。敵でもなく、かといって味方でもない、つかず離れずの位置で互いの生活を維持するのが近代以降の様式だろう。その中で、「皆で温かい空間を作り出し」「気持ちを分かち合う」ことに意識が向く著者は、それだけで優しい人柄が伝わってくる。実践を重視する姿勢にもそれは表れている。その実践の果てに、互いを思い合う人の群れがあらんことを願う。

ふと現代に労働歌は生まれ得ないのか、と考えてみた。「ITエンジニア節」や「戦略コンサルタント節」など想像してみる。思ったより面白そうだ。拍子をつけた歌を口ずさみながら、エンジニアたちはキーボードを叩き、コンサルタントたちはプレゼンをしていく……。

うん、頭脳労働に労働歌は不向きだ。

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