見出し画像

掌編小説:英雄と悪漢

――――――――――――――――
 たびたび、古い小説を公開している。
 この作品も、暗くなって、戸棚の隅に眠っていた掌編のひとつだ。
――――――――――――――――


 ロッカーに鍵をかけて、僕は病院を後にした。
 冬の夜はとても冷える。家まで三十分、僕は何かを考えながら歩いている。右耳で静かな街の音を、左耳でグルードのピアノを聴いている。彼のピアノは新月の夜のような色をしている。
 病院には幾つかの仕事がある。僕の仕事はカルテの整理だ。エーロク判に印刷された小さなカルテを内容ごとに分けていく。A級、B級、C級…………これを延々と繰り返していく。
 カルテには簡潔にその人が記されている。名前があり、性別があり、職業があり、病名があり、彼らの顔写真がある。二十七、男、レモン・レコード、じん帯破損。焼けていて鼻が低く、唇は薄い。七十三、女、米農家、肝臓がん。箱の中で折れてしまったチラシのようにしわくちゃで、汚れている。醜い。十九、男、市島工科大学、急性アルコール中毒。横に潰れた目をしている。焦点があっていない。醜い。
 病の程度、年齢、職業から類推される収入といったものを加味して分類する。二十七の彼はB級、チラシの女はC、大学生はC。僕の分類は治療の優先度を決める。Aが高く、Cが低い。僕の作ったデータをもとに事務が資料を作り、手術などの日程が組まれる。
 機器が印刷し、僕が分ける。日に四時間働く。四時間のうち三時間はそれをやり、残りの時間で休憩と事務室の掃除をする。事務室には資料があり、僕の知らない人々がやってきては去っていく。彼らも分類できる。女、ナース、若い。女、医師、四十台。肌にシミがあり、首の後ろに湿疹がある。六十台、男、警備員。先月入社した。来月には辞めていくだろう。顔は白く、歯は黒く膿んでいる。
 一枚のカルテがあった。それを最後に僕は今日の仕事を終えた。患者のカルテだ。六十八、男、オーストラリア国際委員会・光褌貿易会社・砂山大学。顔。彼の顔は機械から抜け落ちて、工場の隅に忘れられたねじのような色をしていた。ねじのような顔色。それも冬の夜の中でひどく冷たい。そういった顔をしていた。彼はねじのような顔色で多くをなした。金を稼ぎ、会社を発展させ、議員に金を回し、貧乏人から搾取し、環境保全の国際会議を開き、娼婦を雇い、孤児院を建てた。多くの人々がねじのような顔色の彼に怯え、彼と戦い、彼を敬い、彼を憎んだ。
 僕は思う――寒い夜の道で信号が変わるのを待ちながら――彼はいったい、何を求めていたのだろう? そのねじのような顔色をして、彼は何になりたかったのだろうか。彼はなれるものになれたのだろうか。彼は大脳に腫瘍を抱えている。本来であれば手術も、治療行為も行われない。そんな彼のカルテが回ってきた。僕はため息をつき、川辺で煙草を吸った。結局のところ、彼も、僕も同じだろう。どこが違うのだ? 何を求めているのかわからず、ただ社会という渦になせるまま流されていく。場所が少し違うだけだ。それだけで、僕は彼と同じ位置にいる。何も得られずに、暗く寒い冬の道を歩いている。
 左ポケットからカルテを取り出す。ねじのような顔色。川の水面には月と僕の顔が映っている。時が経つにつれて寒さは増し、体は震え始めた。それでも、僕は川辺に腰をおろしたままでいた。今日はこのカルテを見つめていたかったからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?