見出し画像

短篇小説:文学について語るときに私の語ること

 顔も服装も知らなかったけど、横顔を一目見てわかった。そのいで立ち、息づかい。かれだってことが私に伝わってきた。
 私はそれまですごく緊張していた。ことが決まってからずっと。『雪国』、『砂の女』、『さようならギャングたち』。ここの一週間はどれも手がつかなかった。ぼうっと気を取られて、気がついたときには西の空を眺めていた。鷹揚な顔つきをした文学さんが佇むあの空を。私の意識は他にあって、様々なことを考えている。シェヘラザードのこと、オフィーリアのこと。彼女たちと夜の庭の関係について。私の視線はあの空を漂う。文学さんが広がる青暗い闇に向けられている。
 今日の日のことを眠るまえに考えていると、胸が痛んだ。頭まで布団をかぶると青白い私の肌のうえに血の流れが光って見えるようだった。
 私たちは駅で出会った。運命の橋に渡された二人の神の子供のように。黙して互いを認め、「よろしくお願いします」と短く告げると、少し距離をあけて歩き始める。互いの顔も知らなかった私たちはそのようにして約束の場所へと移動していく。駅からカフェに通じる小径は六月の青々とした木々に囲まれてじつに可愛らしい。清らかな空気を裂くようにして一歩一歩踏み出している。道の脇ではハトが日を浴びている。木陰ではハクセキレイのつがいが私たちを不思議そうに眺めている。
 私はもうたまらなくなって、ときどきかれのことを盗み見てしまいそうになる。でも、もしも目が合ってしまったらとなって、結局はうつむいたままでいる。
 散歩道はそんな私と違ってほんとうに涼しい。六月の晴れの日にあたって草木は燃えるように輝いている。木々の葉を透かして緑の色をした影に下生えが広がっている。道に沿うささやかな川。そのせせらぎに私たちのゆったりとした足音が重なる。ふっくらとした土に靴底を滑らせるたびに私は感動して立ち止まりそうだ。いまの私は指の先まで感覚が鋭い。『レ・ミゼラブル』を読み終えたあとみたいに。耐えがたい喜びに身体が打ち震えているし、全てが新しく感じられて別の世界に迷いこんでしまったよう。空間や木々、空と文学さんが私と繋がっている。いまはこの風の流れもわかっている。西から、東に向けて私たちを追いやっている。私はつばを飲む。むせて、泣き出しそうになっている。

 カフェに着くと「山羊さん」が私たちに声をかけてくれる。山羊さんは「こっちだよ」と言う。「やあやあ」って話す。「僕は今朝いちばんからここで書いていたよ。この日の当たる特等席が大好きでね、みなさんにも紹介したいと思っていたんだ」
 山羊さん。彼の姿かたちは見たことがあった。彼のTwitterのアカウントに昔の写真が残されていた。あまり背は高くなく、かといって太っているわけでもない。口元はきりっと結ばれているけれど、目はヤナギのように垂れていて無骨さと穏やかさが入り混じって感じられる。
 山羊さんは席に着くなりまた挨拶を持ちだす。「僕はね、ほんとうに嬉しいんだ。遊園地に連れてこられた子供たちのようなんだ。こうして素晴らしい作家と素晴らしい読者と出会えるなんて、望外の喜びだよ」
 山羊さんは抑揚ある歌うような声で話す。
「あなたが二枚貝さんだね? ……よろしくね。素敵なシャツだ。吸い込まれるような柄をしているね」
 かれはそう言われて小さな微笑みを返す。
「それで、あなたが春麦さんですね。素敵な方だ。もちろん選ばれるその言葉の麗しさで出会うまえからわかっていたことだけど。でも、わからなかったんですよね。春麦さんが女性だってことを。確信が持てなかったというのが正しいのかな。感想文もどこか男性的な目線に感じられたから」
 私は「そうですか?」と言いたくなる。「三島由紀夫を好んで読んでいるから、男性ふうな視点、そのような感想になってしまうのかもしれません」。そう話したくなる。でも、私の唇は嗚咽を漏らしただけで言葉を作らない。体内から産まれたぬるい吐息はたちまちカフェの喧騒に消えてしまう。
「今日はよろしく。ここはカフェだし、先に注文をしたほうがいいね」
 山羊さんはにっこりとして、矢継ぎ早にそう語る。

 二枚貝さんが一人で商品を注文しに行ってくれた。テーブルには私と山羊さんが残された。山羊さんは「申し訳ないけれどトイレに行ってくるね」と告げてどこかへ消えてしまった。私は二人がいなくなって、前髪のことを気にしていた。でも、実際は前髪なんかどうでもよくて、二枚貝さんのあの儚げな振る舞いや、これから話すであろう文学さんの妄想にとらわれていた。
 山羊さんは帰ってくるとにこにこ笑って話し始めた。「今日はほんとうにすごくいい天気ですね。僕は六月といえば、やっぱり雨とやっかいな日照りのイメージが強くて、正直言ってそれほど好きじゃないんです。だけど今日は掛け値なしに素晴らしいですね。光に風、立ち込める草いきれ。チャーミングな女の子が水溜りを踏んで遊んでいるような、そんな素敵な日だと思いませんか?」
 私は、まだうまくいかなくて両目はテーブルの木目に向けていたけど、ふふっと僅かな声で微笑んでみせた。山羊さんが「そうですよね」とにこにこ高い声で話した。私は引きがちな顎をさらに引いてうなずいてみせた。通路を隔てた隣のテーブルではまったく知らない女の人が文庫本に視線を落としている。
「僕はね」山羊さんは急に声を落としてそう言う。「これからあなたたちと文学の話をするのが楽しみだ。二枚貝さん、そして春麦さん、あなたと。それで、春麦さんはその様子じゃ恥ずかしがり屋なのかもしれないね? でも、今日だけはがんばって話してみてほしい。このような場で勇気を出して自分の心の内側を語ってみることは、きっと面白くなるだろうし、春麦さんの思いも満たされると思うから」
 私はただうなずいて見せる。人形みたいに。

 山羊さんはすでにコーヒーのトールを飲んでいたから、二枚貝さんは二人分を持ってきてくれた。私はベージュ色のその紙カップに両手の指を這わせる。ホット・ティーの温かさが肌のうえを流れていく。
「舞台装置もようやく落ち着いたことだし、じゃあ文学の話をしようか」
 山羊さんは続けて話す。「と、言っても、文学について話すっていうのは難しいな。不思議なことだけどね……じゃあ、ねえ、二枚貝さん。最近読んだ本では何が面白かったの?」
 私はまだ紅茶を指で包んでいた。まったくの客衆のように振る舞って、二枚貝さんの端正な横顔を見つめていた。
 でも、頭のはしっこではさっき山羊さんが言ったことの意味を考えていた。正直さを持って心のうちを話すこと。二枚貝さんはちょっとあとに、『エレンディラ』を読みました、と言った。口元を隠すように手をやって、おもしろかったですね、そう言った。
「エレンディラ!」山羊さんはそう言った。それまでと違った、子どもっぽい笑みが彼の顔に浮かぶのがわかった。「エレンディラ! なんて趣味がいいんだろう。それで、僕もじつは最近読んだんですよ。「この世でいちばん美しい水死体」、「失われた時の海」。そうですよね。あの短編集は素晴らしかった。春麦さんは読んだことありますか? いや、すごく有名というわけではないし、読んでなくて当然だと思うんですけど」
 私は、しばらくのあいだ尋ねられているとわからなかった。回答を求められているのだと理解できなかった。山羊さんが話すのに聞き入っていて、対象になっていると気づけなかったのだ。は、と気がついて、言葉にしようとしたときになって山羊さんは「読んだことありますか?」と言った。
「春麦さんは読んだことありますか。ガルシア=マルケスの『エレンディラ』を」
 そこには笑みがあって、優しさがあった。だけどその微笑みは子どもっぽくなくて、静かで落ち着き払ったものだったし、声はさっきよりもやや低く弦楽器のような深みを帯びていた。
「ありません。ごめんなさい」
「いやいや、いいんですよ」山羊さんは余裕のあるその声音で続ける。「もちろん、ガルシア=マルケスは有名ですが、日本でそうだということではないのでね。たしかにガルシア=マルケスはそうですよね。彼の著作はわりと個人的に気に入ってるのですけど、たしかに読まれていない方は多いと思います」
 隣の通路を太った人が通り過ぎようとする。通路側にいた私と山羊さんはそれぞれ内側に体をややよせる。
「やっぱり、ここは春麦さんも、二枚貝さんもわかるような小説で行きましょう。もちろん、文学の話をするのですから、小説のことにこだわらなくてもいいのですが。なにか話したいことはありますか二枚貝さん?」
 かれはそのように振られて、やや笑って困ったふうに手を口にやる。そう言われると難しくて話せないですよ。山羊さんを見ると、わかっていたというふうにいたずらっぽく笑い、そうですよね、と返してまた笑う。じゃあ、そう言って二枚貝さんは本を挙げていく。『南部高速道路』、『太陽肛門』、そしてフロイトの『精神分析学』。
「精神分析学は文学じゃないかもしれないですね」山羊さんはそう言ってまたいたずらっぽく笑う。二人はじつに楽しそうに笑う。
「春麦さんは?」
 山羊さんはそう言う。
「春麦さんは読んだことありますか? 今話した三つの本ですけど」
 山羊さんはそう言う。
「いいんですよ。ゆっくりで。べつに僕らは緊急の仕事を抱えているわけではないんですし。ゆっくり考えてから話してください。春麦さんのペースで構いませんから」山羊さんはやはり穏やかな様子で私に語りかける。私に二つの手のひらを向けて話している。細めた目で私を見て話している。
 私は読んだことがない。店のあっちの方で花火のように笑いが起きる。さっきの太った人はチョコ・クッキーを頬張っている。私はそれらの本を読んだことがない。聞いたこともない。
「ごめんなさい。読んだことがなくて」
「いえ。大丈夫ですよ」
 山羊さんは微笑む。

 それから二人はいくつかのことについて話をしていた。文学の重要な点について。山羊さんはやはり楽しそうに語っていた。二枚貝さんは口に手をやり、可愛らしい仕草をまじえて話していた。
 それは楽しい時間だった。文学について、私の思っているのとはまったく違っていたけれど、たしかに聞いていて楽しかった。山羊さんは笑った。二枚貝さんも。かれがはにかんでみせると、私はどきどきしてしまった。午後のカフェのその時間はじつに新鮮に感じられた。
 でも、同時に、私は少しずつ移動しているようだった。会話という会話をせず、二人から離れていくようだった。二人は楽しそうに語っていた。悪いのは私だった。私が自分で離れているのだった。それでときどき胸が痛くなる思いをした。
 山羊さんはゆっくりとした調子で、低く私に訊ねてきた。「思うことを話してください、春麦さん」。私は首を振った。二人はややあって、別の話題に移っていった。
 山羊さんは「そうそう今日話しておこうと考えていたんですよ」と言った。「これだけは必ず話しておかなくちゃいけないと思っていたんですよね」と言った。「二枚貝さんの新作、アリス・リデルについて話しておかなきゃいけないですよね? これはもっとも重要な話題のひとつですよ」と言った。
「あの作品はね」山羊さんはそう切り出す。「あの作品は、素晴らしいものだよ。これはほんとうの言葉だ。僕は嘘をつくのが苦手だ。そういうこともしたくない。だからもっと適当な言葉があれば、僕は正直にそのむねを打ち明けるよ。たとえそれが作品を貶すことになってもね。しかし、ほんとうのことだから仕方ないんだ。あれはほんとうに素晴らしい作品だったんだ。僕はこれまでに数多のアマチュア作品を読んできているのだけど、『アリス・リデル・イン・ワンダーランド』より上手く書けている長編はお目にかかったことがないね」
 二枚貝さんは恥ずかしさと嬉しさの混じったふうにふふっと笑った。ありがとうございます。そう言った。
「ただ、あの作品について、ひいては二枚貝さんのスタイルに通ずる惜しい点は物語の速度だろうね。二枚貝さんのアイデア、つまり比喩表現はじつにナイスだ。ときどきにはそれだけで小説を一篇書いてしまいたいと思うくらいのものもある。白い冷蔵庫と死の感覚とかね。でも、そのようなわくわくさせられるアイデアが出てきても、二枚貝さんの小説はそれを検分する時間なしにどんどん進行してしまう。二枚貝さんの小説のアイデアは豊かな水のように湧いて出てきている。しかしそれは止めようがない。そして水は溢れ出し、食料や家財道具、それらすべてを腐らせてしまう。こんこんと湧き続ける水、読者の世界の浸水。あまりにも放埓なアイデアの水の奔流に僕たちはやられてしまうんだ」
 なるほど、と二枚貝さんがうなずく。
 私には山羊さんの言葉はあまりよくわからない。むずかしくて。しかし同時にわかるような気がする。こんこんと湧き続ける水、読者の世界の浸水。言葉は正確な意味を捉えられないけれど、伝わってきているように感じてしまう。
「春麦さんはどう思うかな?」
 私はうつむいたままで首を振る。
「いや、いいんだよ。べつに僕の意見なんて正しくないんだ。ごく小さな視点から見やったものに過ぎないんだ。意見というのは間違っていないのと同様に正しさも持たない。だから自由に話してくれてかまわないんだ。とくに文学について語るときにはね」
「どうだい? 二枚貝さんのアリス・リデル、そして僕の感想に思うことはあるのかな? 率直な言葉でいい。語ってみてほしい」
 山羊さんはそう話した。
 私はどぎまぎしていた。問われるとそれまでのすべてが沈黙してしまう。すべてがすべてわからなくなってしまう。私はテーブルに視線をやったままで首を振る。わからない、わからない……どうぞ二人で話していてください。私は聞いているだけで幸せですから。そう口に出して話したかった。
 しかし山羊さんは何とも言わなかった。
 いくばくかの沈黙は私の神経をぎゅっと絞るようだった。
 他の客の笑い声が水紋のように広がっている。
「春麦さん?」
 私は顔をあげる。
「大丈夫かな?」
 私はそう問われて、「大丈夫です」と言う。その声は掠れている。
「ごめん。聞き取れなかったよ。今なんて言ったの?」
「大丈夫です」
「ああ……それはよかったよ」
 山羊さんは息を落ち着けて、コーヒーを飲んでいる。その目は二つとも閉じられている。飲み終えても閉じたままでいている。
 それから私たちのテーブルは静かになる。
 時間が経つと、他のテーブルの話し声が大きくなったように感じられる。私はその声を上手く聞き取ることができない。日本語ではない、別の言語であるようだ。
 二枚貝さんは辺りを見回している。閉じ込められたように狭いカフェの店内を。それからすいません、と言って立ち上がる。かれはどこかへ歩いていってしまう。私は山羊さんと残される。
 山羊さんは何も語らない。時おり深い溜息をつく。それが満足からなるものではなく、不満からなるものだと私には伝わってくる。以前山羊さんは目を閉じている。

 向こうの席で太った人がクッキーをおかわりしている。クッキーかすが散らばっているのがわかる。
 隣のテーブルにはいま誰もいない。
 向こうから、私の後ろから、至る所から知らない人の会話が聞こえてくる。笑い声が届いている。高い声、低く響く声、笑う声。カフェの喧騒は西日のように私たちの存在をくっきりと浮かび上がらせている。私にはそのように感じられる。

「西の空に文学が見えるんです」
 私はそう言った。
 山羊さんは細い目を開いた。それから「すみません。もう一度」と言った。
「私、西の空に文学が見えるんです」そう言った。
「ほう」山羊さんはコーヒーを一口飲む。「それは表現ですか?」
「いえ。私、ほんとうに見えるんです」
 山羊さんはいくらかの間黙っていた。垂れた細いその目でこちらを見やって、つぎに辺りを見やった。「ここのカフェは元気が多い人ばかりだね。たくさんの声であふれてるよ」そういう声が聞こえてきそうだった。
「いいよ。続けて」山羊さんはそう言った。
「いえ。もうこれ以上はないんです。ただ、西の空に文学が見えるんです」
「なるほど」
 山羊さんはそう言ってちらりとスマートフォンに視線を落とす。それからまた押し黙る。まるで脱線した物事が正常な地点へ復帰するのを待っているかのように。
「私、見えるんです。入道雲みたいだけど、違うくて、どの季節でもそれは西の空にいるんです……いらっしゃるんです。とても遠くにいらっしゃるのに、大きく見えるんです」
「それは入道雲より大きいのかい?」
「はい。そうです。すごく大きいんです……遠くにあると山でさえ低く見えますけど、文学さんはどこへ行ってもほんとうに巨大なんです」
「文学さん」山羊さんは私の言葉を繰り返した。
「はい。そうです」
 少し沈黙があった。山羊さんは今度は考え込んでいるようだった。テーブルに両肘をつき、手の甲のところに唇を重ねていた。視線は下に落ちていた。空間の空白を漂っていた。
「それは……どのような色をしているんだい?」山羊さんはそのままで訊いてきた。
「文学さんは黒い色をしています。でも、半透明で、向こう側もはっきりと見えます」
「文学さん……それは入道雲のような形をしている?」
「いえ。人間、だと思います。でも腕は無くて、手も足もなくて、頭と首があります。おなかも……横に長い、楕円の形をしていて、下半身は地中に隠れています。触れれるような感じじゃなくて、なんていうか」
「それはカオナシみたいな感じなのかい?」山羊さんは少し柔らかい声でそう言った。顔は見えていないけれど、にやりと笑っているように感じられた。
「いえ。違います」
「ふむ」山羊さんは言う。「違うんだね」
「違います」
 カフェのなかでせわしなく店員が働いている。遠くではカードゲームをやる中学生の子たちが見える。隣のテーブルには女性が新しく座っている。彼女はマック・ブックで何かを打ち込んでいる。私は自分の左手で親指を揉んでいる。まだどきどきしている。じつはとてもどきどきしている。
「それで……」山羊さんが口を開く。「君はそれに近づいたり、会ってみたこと、それで何か話してみたりしたことはあるかい?」
「いえ。近づいたことはあるんですけど、電車に乗って。どれだけ西に行っても、ぜんぜん近くならないんです。東のほうに少し行ったらすぐ小さくなるのに」
「なるほど。つまり城なんだね?」
「城?」
「ああ、すまないね。そういう話があるんだよ、小説で」
 それから山羊さんはずっと考え込んでいた。カードゲームの中学生たちが大きな声で喜んでいた。
 私はよくわからない気分だった。嬉しい感じなのか、疲れた感じなのかさえ判断できなかった。興奮気味で、身体が熱かった。それでも上着は脱がなかった。ぬるくなった紅茶を飲んで、はっきりと私は山羊さんを見ていた。
 二枚貝さんが帰ってきた。トイレに行ってました、と言った。混んでて時間がかかってしまいました、と話した。山羊さんはそれでも顔を上げずにいた。私も黙ったままでいた。あるときふいに笑みを浮かべた顔つきで山羊さんは二枚貝さんに語った。
「さっきまでね、とても面白い話を聞かせてもらっていたんだ。西の空、つまりあっちのほうだね。あっちの空にね、文学さんが浮かんでいるっていう話なんだ。文学さん、不思議でしょ? そいつは黒っぽい半透明をしていて、夏の入道雲よりずっと大きいそうだ。ほとんど空の支配者だね。で、面白いのがこうだ。東に進めばもちろん文学さんは小さくなる。でも、西に進んでもいっこうにそれは大きくならない。つまり、近づくことができないんだ。それはずっとそこにあって、西の空に鎮座していて、まったくどうしようもできないんだ」
 二枚貝さんは澄んだその瞳を向けて聞き入っていた。
「面白いメタファーだよね……城とかぶっている点を除けば、ほんとう素晴らしい。いや、もちろんどっちにしろ面白い話だ。僕はもう聞き惚れてしまっていて、春麦さんの語りの技術には圧倒させられたよ」山羊さんはそう言って笑った。「少しずつ、僕が訊いて返してもらう様子はウミガメのスープみたいだったよ。二枚貝さん、あなたも面白いメタファーに思えますよね?」
 山羊さんは笑ってそう訊ねた。しかし、二枚貝さんは何とも言わなかった。まっすぐと山羊さんのほうを見つめて、そのままで止まっていた。深い深い海の底を知ろうとして神経のすべてを集中させているようだった。山羊さんはかれの返事を待たずに自分の話をした。
「それで、さっきはごめんなさいね、春麦さん」
「私ですか?」
「はい。春麦さんの比喩表現が面白いものだから、敬語が崩れてしまっていました。いや、元々得意ではないんですけど。それでも申し訳ありません。初対面なのに変な言い方をしてしまって」
「大丈夫です」私はそう言った。
「それじゃあ行きましょうか」
 にっこりとした顔つきで、音節を確かめるようにゆっくりと話す。
「忘れ物はありませんかね?」

「それじゃあ僕はここで失礼します。今日はありがとうございました。ぜひまた会いましょうね」そう言って山羊さんは別の方角、東の方へと歩いていった。二枚貝さんと私は来たときと同じで、黙ったままだった。そのころにはだいぶ日が暮れていて、夕日が鋭く差していた。
 私たちはまた同じ道を帰っていく。かれはまた私の数歩先を歩いている。草木の茂るこの道は、今ではすべてが赤く輝いている。そして、私はあのときとは違っている。
 駅につくと、かれは口を開く。電車を訊かれて「別のですね」と答える。それからどっちも何も言いださない数瞬があってからかれが話す。
「いまさっき歩いているときも、文学さんは見えていましたか?」
 私は「見えていました」と言う。そしてそのあと、私はいまかつてないほど緊張していて、自分がすごく赤らんでいることを自覚する。私はたまらなくて、まともな挨拶もできない。隠れるようにして一番線へと駆けていく。

 あれから一週間がたった。私はチャットで別れのことを謝罪しようかと思った。文章を長々と認めてみて、それをすべて消した。そんなことをこうして長く書くのはすごく恥ずかしかった。
 それからまた一週間がたった。雨季は終わり、夏は盛りへと勢いを強めていた。暗い自室でブルー・ライトを放つそのモニターで、二枚貝さんの「アリス・リデル・イン・ワンダーランド」を読んだ。私にその面白さは半分くらいしかわからなかった。私はいつものように時間をかけて読書感想文を書きあげた。悩んだあとに、投稿のボタンを押した。
 夜眠るまえにあの日のことについて考えることが多くなった。あの日を境に、私は少し変質したように感じていた。輪をくぐり抜けた、というのとは違う。それは悪いことだった。罪悪の伴うことだった。
 あれ以来、私は山羊さんの小説、ツイート、その他もろもろを見なくなった。画面に映らないようにした。山羊さんから連絡があるわけでもなかった。私はそうしていた、見たくなかったから――でも、そのことを考えるとやっぱり自分が悪いように感じた。私はあの日、ひとつだけ嘘をついた。たしかに、文学さんとカオナシは少し似ている。
 八月になったある晩、私は布団のなかで泣きだしてしまう。私のそれまでのすべてが指先から崩れてしまったようだった。夏の間、結局私は何も読み通せなかった。罪悪感やどうしようもない恥辱の思いに襲われて、どこに逃げることもできなかった。本が嫌になっていた。私は頭ごと布団にくるまっていた。どれくらいだろう、夜を通して泣きじゃくっていた。
 泣き腫らしたあとに、私は自分の感覚が澄んでいくのを感じていた。良質な小説を読み通したときに似ていた。予感がして、ロフトのカーテンをあけると、そこに文学さんが見えなかった。あれだけ大きく、そして中学生以来ずっと私を見つめてくれていた文学さんはいなくなっていた。そのことで私は悲しくならなかった。これから起こるであろうことが感覚を通して私に伝わってきていたからだ。
 私は布団に戻った。今度はきちんと頭を出したままで目を閉じた。布団は濡れて冷たかった。車の音がときどき聞こえた。
 時間のあとに、文学さんが私の部屋をノックした。私は目を閉じたままでいた。文学さんは人間台の大きさになって、私の部屋に入ってきた。その落ち着いた眼差しで部屋を見渡し、やがて梯子に手をかける。一歩一歩を確かめながら登ってくる。そして、ロフトの、私のところへやってくる。文学さんは立ったままで私を見下ろしている。
 それから文学さんは私の隣に入ってくる。私は少しだけ寄って、文学さんの場所を空けてあげる。文学さんは肩まで布団をかけた状態で、私のほうを向いて横たわっている。私の優しい寝顔を愛おしそうに見つめている。文学さんはいまではカオナシではなくて、二枚貝さんに似ている。ほっそりした目鼻立ち、透き通るような瞳。同時に、山羊さんの影もそこにはある。
 文学さんは私の髪を指で梳く。ゆっくりと、ゆっくりと、愛し合うカップルのように。それでも私は眠ったままでいる。私にはわかっている。ここで目を覚ましてはいけないことが。ここで文学さんを見つめ返していけないことが。
 私は眠りながら、髪を梳かれながら、その心地よさのなかで考えている。あの日から私は変わってしまった。たくさんのものを失ったみたいだった。いまもこうして変化している。昔の私ならここで目をひらいていたかもしれない。でも、いまの私はそうしない。
 やがて空が白み始める。太陽が眠たげに頭をもたげ、世界が白い光に曝されていく。私はまだ眠っている。文学さんはまだ私を愛でている。夜が完全に明けて、朝の世界がやってきたとき、文学さんは微笑みとともに立ち上がる。別れの代わりに喜びの言葉を口して、この部屋から去っていった。
 私はゆっくりと起き出す。落ち着いたままで目を開く。そして光のなかで理解する。これまでとはまったく別の、新しい私としてうまれ変わっていることを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?