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妄想と通信#1 「半額の蕎麦」

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眠りても 
我が内に潜む森番の 
少年と古きレコード一枚
――寺山修司


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 僕にはデートの予定があった。12時からのデートの予定だ。グーグルは奇妙な魔法のように電車の到着時刻を教えてみせた。「11時50分」
「11時50分まえには着くみたいだ」
 僕はそうLINEした。
 しかし、11時50分、僕はまだ電車の中にいた。広い庭や畑がちらほらとあり、白い砂の空き地や、文化住宅の並ぶ街並みを眺めていた。
「ごめんね」
 僕はそうLINEした。
「だけど……もうすぐだからね」
 僕はそうLINEした。
「12時までには着くはずだからね」
 僕はそうLINEした。


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 ずいぶん歩いて、疲れていた。僕はほとりのマクドナルド・ハンバーガー・ショップに転がり込んだ。注文している間も背中がぴりぴりと痛んだ。頭は風と日差しで焼き切れたようだった。僕は「えーっと」と言った。
「えーっと」
 店員さんは妙な顔つきをしていた。深い海に棲む魚のような。あるいは、新年に突かれた新鮮な餅のような。僕はランチ・セットを注文した。

 二階にはどっさり、若者たちが棲んでいた。僕は文庫本(『ナイン・ストーリーズ』)を取り出して読んでいたが、なかなか集中できなかった。まえの席に男の子が座っていたのだ。学生服を着ていたのだ。学生服を着た男の子がマクドナルドの席に座って、けんめいに数学の勉強をしていたのだ。
 それは可愛い男の子だった。
 声をかけるべきか、かけないべきか、それだけが問題だった。僕は文庫本のこちら側に顔をひっこめ、ちらり、その子を覗いてはもだえていた。


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「『妄想と通信』というエッセイをおもいついた。日々のなかで僕の内に生じた妄想や、人との交わりの風景を、ときに優しく、ときに奇妙に書いていく。一編はごく短いが、ひとつの「妄想と通信」のなかに十編ほど収録されている」

 一昨日、そのように思った。一昨日は冬の雲が垂れ込める暗い日だった。僕はハンガーに洗濯物をひっかけていた。洗濯物はどれも鋭く濡れている。僕は自分の指先が凍えて、きりきり痛むのを感じていた。四階のベランダからでは住む町の様子がよく見えていた。路面は雨の色で黒く滲み、弱い午後の光は世界の色を淡く映していた。
 道を過ぎていく人々は四階の僕に気づかなかった。僕は彼らを観察していた。垂れた両目で。
 手と指は回転する歯車のように働いていた。凍えの痛みは忘れられていた。

 蕎麦の話をしよう。「半額の蕎麦」だ。
 十二月の最後、僕らは僕の町を歩いていた。僕らというのは、僕とガール・フレンドだ。
 彼女は指さして言う。
「ねえ見て! あそこに蕎麦が落ちてるわ!」
 たしかに。レンガ造りのオープン・テラスに、蕎麦がひと玉落ちていた。僕は話した。「たぶん、隣のスーパーで買ったやつなんだろうね。十二円で売っているんだ」

 彼女は振り返って言った。
「落とした人、蕎麦ぬきで年を越さないといけないのね。可哀そう」
 僕は彼女を見つめて言った。
「そうだね」

 僕らは帰りがけにもう一度そこを通った。そのときにも「蕎麦」は落ちていた。
「ねえ!」ガール・フレンドは言う。「あの蕎麦まだ落ちてるわ!」
「そうだね」僕は言った。よく見るとシールも貼ってあった。
「半額シールも貼ってあるね。さっきは気づかなかったよ」
 売価十二円の半額蕎麦。
「そうね! 貼ってあるわ! 落とした人は可愛そうだわ」
「そうだね」

 僕は彼女に言った。そういうことは、あんまり大きな声で話すことじゃないんだよ。
 もう少し落ち着いて僕に話してみせてほしいな。
 でも、きみはひどく可愛らしいよ。


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 リチャード・ブローティガンがいる。
 いや、正確には、リチャード・ブローティガンが「いた」となる。
 僕は彼の作品を読んで、もう、たまらなくなってしまった。
 最高だったんだ。
「30年前、ブローティガンはピストルで自殺した」
 Wikipediaは僕にそううちあけた。
 それでしばらくへこんでいた。
 ここを過ぎてかなしみのまち、ということだった。


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 僕は教授と話していた……歴史の教授だ。約束通り、コーヒーを淹れてもらった。僕は飲みながら以下のように話した。
「このまえ、ガール・フレンドがうちのNescaféを飲んだんです」
「それで『麦茶』って言うんです。『あなたのコーヒー、麦茶みたいな味がする』って」
「そんなばかな。そう思いました。だけど、本当に麦茶なんです。それからずっと、Nescaféの味が麦茶のままなんです。色つやもそっくり……」
「……(すんすん。においをかぐ)これも、麦茶みたいですね」
 教授はニヤリとした。ただ、声に出しては笑わなかった。「ふん」と鼻を鳴らした。これは中の上のコーヒーなんだけどね。そう言った。
「ふうん」僕はそう言った。
 ミッキー・マウスのマグ・カップだった。赤い素敵なカップだった。


***
 怒っている人に会うと、じっと見つめてしまう。
 なぜかはわからない。どうしても見つめたくなるのだ。その人のまえにたって、瞳をのぞくように目を見開く。

「……どうしてわからないんか? それよったら邪魔になるんやろ。あっちにも置いとき言うとるやんか。こっちにさ、この奥のところに詰めとかんときいや。なあわからないんか?」
 女性は箱を持ちあげたり、持ちさげたりしている。
 せっせと積み替えている。
「なあ、わからないんか? なあ?」
「わからないんです」小声でそう言う。いまにも消え入りそうな声で繰り返す。「わからないんです」
「ん」
「ん?」
「おはようございます」警備員に向かって、僕がそう言う。女性に箱を渡す。「ありがとうございます」そう言う。
「ああ、キミのことじゃないんや」
 警備員は笑って言う。
「ちゃう、ちゃうよ」
 僕は警備員の瞳をじっと見つめている。黒くて、澄んだ、そろった瞳。
「おはようございます」と、もう一度言う。
「ああ、ああ。おはよう」
 照れくさそうに僕を見返す。帽子を外してごしごしと頭を掻く。

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 眠るとき、僕はいつも妄想をしている。
 昨日はガール・フレンドのことについて妄想していた。眠るすこしまえまでは音楽を聴いていた。ビーチ・ボーイズの「セイル・オン・セイラー」だ。

 デートをした男の子に同棲の話を持ちだしたとき、ひどく驚いていた。まるで、「大学生で付き合って、卒業後も同棲するなんて、純愛ですね」と言いたげなように。

 どこに住むか妄想していた。二部屋あるとなにかと便利だな。

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