延々と無難な道を選択する自分に、なにも感じない「鈍さ」は、もはや強さですらある。

仕事をしていて思うが、無難なことをやっていて手に入るものは無難なことだな、と。それは悪いことじゃないし、オレは「リスクを取ってデカいことやろうぜ」みたいな思想の持ち主でもない。無難に生きていく人生があってもいいし、本人が幸せかどうかが何よりも大切だ。

しかし、日々にモヤモヤを募らせたり、仕事ややってることに飽きを感じるとき、それは無難に侵されている可能性がある。ハラハラしていない、ドキドキしていない、ヒヤヒヤしていない、そういうこと。失敗は嫌だからと、無難な選択をし続けることに、何も感じない人とそうじゃない人がいる。オレは後者で、たまには刺激が欲しくなる。

刺激を手に入れるために、あえて自分にプレッシャーを与えることもある。もちろん、どうなるかわからないようなことには手をつけない。仕事の場面でそんなことをしたら、クライアントに迷惑がかかるからだ。だから、ある程度準備をした上でおおよその見通しがつくことに対して、しかし、自分がやったことのないことに手を伸ばしてみる。他人から与えられるプレッシャーと違って、ゲロを吐くようなストレスには感じない。

毎日、同じことを繰り返していて、病まないひとの鈍さに憧れる事はないだろうか?これは、皮肉ではない。冗談でもない。至極まともな意見として、毎日同じことを繰り返すことに疑問を感じないで日々をやり過ごせる人になれたら、どれほど楽かと思う。違和感なく、ストレスなく、思考することなく、淡々と生きられる鈍さ。その鈍さに気がつく敏感さんもなく、それでいて本人は休みの日に出かけることだけを毎日考えて楽しそう。

そんな人になれたらどんだけ楽か。オレは目の前の仕事が単純作業に感じられると、なんとも言えない虚無感に襲われる。だから、いつも勉強するし、新しい技術を習得しようとするし、それをお客さんに提供しようとする。そうでもしないと、同じことの繰り返しに頭がおかしくなって病んでしまいそうになるからだ。

そこまでやって、やっと鈍い人と同じような平穏を心に保つことができるのだ。鈍いって、すげぇんよ。

それはそうと、鈍い人は無難なことを延々と続けられる。自分の行いが無難であることにも気がつかないのかもしれない。自分の仕事に懐疑の目を向けることもない。それでいて平穏。なんという強さか。

オレは、無難を踏み続けることを自分に許したままにできない。とは言っても、どのラインを無難とするかには人それぞれの感覚があるから、他人の目から見ればオレとて十分無難な選択に落ち着いていることかもしれない。しかし、自分の感覚としては、ハラハラするようなリスクを取っている。その先に跳ね返ってくる喜びが、一時的であれ自分を満たしてくれるからだ。あ、やっててよかったな、と、報われる感覚。それを追いかけている。


あ〜、金麦飲みてぇなぁ