ネット上の友情は本物か?
誰もが何かしらのSNSを利用している時代。
会ったことはない、SNS上の知り合いや友人がいるという人は多いのではないかと思う。
私にも2年ほど連絡を取り続けている外国人の友人がいる。
相手が異性であることや、国籍が違うというマイナーな事情は今回はおいておいて、”ネットオンリーでの人間関係"について、考えていきたい。
彼とは、英語学習目的で利用していた言語交換アプリで知り合った。
興味の対象や生きる上で大切にしていることなど、かなり共通するところがあり、英語の勉強もかねて、頻繁にやり取りをしている。
メッセージだけのやり取りもあれば、ビデオ通話をすることもある。今となっては、彼に話せないことは何もない。かなり近しい友人、そんな状況。
彼はこの世の中に実在して、自分の中でも彼を実在の人物として頼っている部分がある。彼は存在している。それは間違いない。
しかし、これだけ話をしてきたにも関わらず、これだけ理解しあえる友人であるにも関わらず、今まで一度も会ったことがないというのは、ものすごく違和感がある。
彼の存在は疑いない。だけど、実感がない。
彼がものすごくよくできたAIという可能性も否定できない。(私なんぞにAIが話しかけ続ける理由が思いつかないけども)
人間関係というのは全て、自分の心の中にのみ存在しているのではないか、という感覚を抱き始める。人間関係の存在を証明することなんてできない。
私が「ここには人間関係が存在している」と認知していることだけが、その存在のすべてなのではないか、と。
また、同じ考え方をすれば、「理解している」「理解されている」感覚も、錯覚じゃないか?
2年間、いろんな話をしてきたこと、ネットを通じていろんな文化体験を共有したこと、そうしてお互いの人生の一部にかかわったこと。その全てが、「本当はなかったのではないか」という気さえしてくる。
極論、自分が「この友情は本物だ」と信じれば本物になるし、「虚構だ」と思えば、本当に虚構でしかない。
ただ言えることは、その虚構かもしれない話し相手に、支えられてきた部分が大いにある。その事実は変わらない。
そこには”人間関係がある”と信じていいのかもしれない。
現代は”人間関係が希薄化している”と言われる時代。
このような自分の経験から言っても、”希薄化している”という言葉は正確ではなく、”多様化/複雑化している”んだと思う。
かつてはなかった形の人間関係が生まれた。
自分自身の人生を使った実験のよう。
何年先かはわからないけど、結果をみるのが楽しみだ。
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