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聖名②

 初めて袖を通す浴衣は母が縫ってくれた。
 
 浴衣と同じ薄紅梅の生地で作った細いリボンで、少しウェーブのかかった柔らかい猫っ毛を結ぶ。日焼けを嫌って、日傘と敏感肌用の日焼け止めで守っている白い頸に、後毛が揺れている。いつもは下げている前髪も捻ってピンで止め、形の良い額が愛らしく、弧を描く美しい眉と伏せた瞼にすれ違う人は皆見惚れた。薔薇色の頬に落ちるふわふわの睫毛と薄い唇から覗く白い貝の様な小さな歯。

 ゆめふわな美少女の僕は、気付くと自分の部屋のベッドに横たわっていた。

 何だか頭がぼーっとして気だるい感じがする。見慣れた天井を見上げたままそのままゴロゴロしているうち、寝起きだと言うことに気付く。枕元のスマホを見ると朝の9時過ぎだった。少し寝過ごしたと思い、寝巻きのまま部屋を出て階段を降りると、何だか脚に違和感を感じる。軽い筋肉痛に脹脛を摩っていると、さっき見たスマホの待受を思い出した。

(あれ、今日って日曜日・・・てか何だろ?この感じ)

 前にも同じ様なことあったような。それより先輩にお祭りに誘われたんだっけ。やば。

 8月最後の日曜日。この日行われる地元のお祭りに、大好きな先輩が誘ってくれたことが嬉しくて、浴衣を新調して貰ったのだ。そんな大事な日に僕の左頬には小さな赤い点が出来ていた。

「うそッ、最悪〜ッ。」

 目を閉じて、アクネ菌滅殺を念じてそっと瞼を開けて見たけど、悪魔の烙印は左頬から消えていなかった。

 溜息を吐きながらリビングに入ると、薄紅梅の浴衣が掛けてある。まだ一度も袖を通していない糊の効いたパリッとした仕上がり。お揃いの生地で作ったリボンと巾着が可愛い過ぎて死ぬ。

「聖名、あんまり遅くならずに帰りなさい。8時過ぎたらお父さん迎えに行くからな。」

「先輩に送ってもらうから来なくていいよ。」

 桜色のペディキュアを塗りながら、しれっとそう言ったらお父さんは泣いてしまった。弟の瞬に慰めてもらっている。全く大人気ない。瞬は迷惑そうに僕を見て「メンドくさいから泣かせないで。」とボヤいた。キッチンでお母さんが笑っている。

 夕方6時半。紫紺色の浴衣姿で現れた先輩は、浪人結びの帯がとっても粋で色っぽかった。それでいて所作の一つ一つに品がある。玄関に挨拶に出て来たお母さんは、先輩の色男っぷりに驚いていた。心配性のお父さんが、瞬と一緒にいつまでも玄関のドアから見送っている。

 赤い鼻緒の下駄が先輩に歩幅に追いつくように音を立てる。すると先輩はあくまでスマートにスピードを落とし、僕を気遣ってくれた。僕と先輩はいつもと違う自分たちの装いを褒め合いながら神社までの道を歩いた。二人の頬は夕陽の色に染まり、それからどんどん暗くなって、気付けば提灯の灯りが集まった人たちの顔に、はっきりと陰影を映し出していた。

 鳥居を潜り参道へ入ると既に人が一杯だった。綿飴と林檎飴とかき氷、祭囃子に水風船を弾ませる。射的、型抜、金魚掬い。鉄板の熱が小気味良い音をたてると、立ち込めるソースの香りが食欲を唆る。

 屋台でどれか一品しか食べられないって言ったら、何食べる?

 ばかみたいな僕の質問にも、先輩は真剣に悩んでくれる。僕は解答が待ち切れなくて「やっぱ林檎飴かなぁ。」と言うと、先輩は「焼きそば」と答えた。流石男子、ガッツリ食事かと思いきや「さっき君が食べたそうだったからさ。」なんてゆうから、僕は赤くなって先を歩いた。

 提灯の灯りの下を抜けて拝殿に続く石段を見上げると、閑かな暗闇が広がっていた。歩き疲れたのでひと休みしようと先輩を誘うと、鳥居の前で少し躊躇している。でも、さっさと石段を上って行く僕を気遣って直ぐに追いかけて来てくれた。慣れない下駄で少し擦りむいた指を鼻緒から引き抜くと初めて塗った薄い桜色のペディキュアが少し剥がれ落ちていた。

「痛いの?」

 先輩が優しく尋ねるので、促されるまま並んで拝殿のきざはしに腰掛けた。僕は憧れのお姫様になった気分でドキドキした。でもその何ドキドキの何処かで首を傾げる僕もいる。僕はこんなふうに大事に扱ってくれる相手を望んでいただろうか。誰かに守ってもらえる様に振る舞っているんだろうか。

 人間は、自分に無害な相手には懐き、無意識に身の安全を選択するように出来ているのではないだろうか。安心安全安定を求める細胞に従い、ホルモンに納得させられているだけなのではないだろうか。

 だって、DNAがいくら望んでも、それは期間限定で、必ず脅かされ誰にも何にも守ってもらえない瞬間は訪れる。

 そう、誰もが独りだ。

 神社の境内の鳥居の内と外。静謐と喧騒の間。暗闇と燈のグラデーション。生と死。僕と先輩。

「行かなくちゃ。」

 その時、高台の神社から見上げる夜空に花火が開いた。

序〜第三話、はてなブログからの転載です。