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ノルウェイの森、葡萄の実

「東京なのに電話番号の市外局番が03じゃないんだね、って地元にいる彼女に笑われたよ」

私達が入学した東京のはずれの大学。そこから数駅のアパートにその人は住んでいた。

そこそこメジャーな大学の、まあまあマイナーで受かりやすそうな独文科。特に男子はたまたま合格したのがこの学科でした、みたいな人がクラスの大半だった。そして彼らの殆どは地方出身者だったため学校の近くで一人暮らしをしており、時間はあるが金はない同士でしょっちゅう誰かの家に集まって遊んでいた。なので私のキャンパスライフは、都会のキラキラしたそれとはかけ離れたのどかなものだった。

その輪から孤立しているわけではないけれど、ほんの少し浮いているように見えていた彼が、ある時何の話の流れだったか「読んでないなら貸すから読んでみて」と私に貸してくれた本が村上春樹の『ノルウェイの森』だった。

その本を返しがてら、初めてその人のアパートに遊びに行った。京王線の駅を降りて、こぢんまりした飲み屋街を抜けた先のコーポなんちゃらの一階の部屋。

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彼は誰かと『ノルウェイの森』の世界について話したかったんだと思う。スマホなどなかったあの頃、SNSに感想を綴ったり出来る世界線はまだ訪れていなかった。この小説のテーマと、謎の残るショッキングな形で既に他界していた尾崎豊に心酔していたその人と、どんな話をしたかもうあまり思い出せない。何故なら私はそれまで死を身近に感じたことなどなく、正直この小説の凄さがよく分からずあまりハマっていなかったからだ。飲み慣れない安いアルコールのせいで終盤は若干気分が悪くなっていたせいもある。

鈍いわけではないのに感情表現が淡く、客観的すぎてどこか冷たく感じる主人公ワタナベにも、内省的すぎるあまり精神のバランスを崩して次々と自殺してしまう登場人物達にも感情移入出来ず、これほど評価され売れている小説の良さが今ひとつピンと来ない自分にも、何か人として決定的な欠落がある気がして軽く落ち込んだ。

そして登場人物達が流れるような自然さでセックスをしすぎな気がして、そのことも私をモヤモヤさせた。恋人同士の愛情表現の一環としてのそれと、シンプルに性的な欲求を満たすためのそれ以外にも、どうやら人にはセックスする理由というのが色々あるらしいということを、おそらくこの本をきっかけに意識するようになった気がする。

その人が、命を削るようにして曲を作りながら26歳という若さで亡くなってしまった尾崎豊の話をしたり、自分でも書いてみたという暗い手記のようなものを読ませてくれたり、ノルウェイの森の様々な場面の話をするたびに、死の気配が立ち込め続ける暗い森に自分が引き摺り込まれるような、洗脳されるような怖さがあった。

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「アイちゃんは緑のイメージ」

主人公が長い喪失と悲しみから抜け出そうと決めて、物語の最後に電話をかける相手が緑だ。ワタナベを取り巻く登場人物の中で最も死から遠い女の子。彼女もまた、直子たちとは違うやり方で身内の死や厳しい現実と折り合いをつけながら生きている。天真爛漫に見えるけれど決して天然ではない、賢くて魅力的な女の子だと思いながら読んでいた。

これ以上この人の話に頷き続けたら、そんな女の子に憧れているだけの、私の雑で薄い塗装が剥がれそうで怖かったし、「生」の側から振り落とされないための吊り革みたいに頼られるのも若干面倒だった。自分にはそういう冷たさがあると自覚させられるたびに、欠陥という言葉が頭をよぎることも辛かった。

それにもし「お互いが明日からをより良く生きるために、寝ようか」などと言われたらいよいよ本当に困ると思った。性の話も普通の顔で淡々と聞いていたくせに今さら処女だなんて言えるわけなかった。

私達はそんな風に恋愛感情が入る隙間もないくらい狭いワンルームで、お互いの青臭い死生観や恋愛観の話をすることにも少しずつ飽きて、やがて社会人になった。

入りたかった会社に採用が決まった私が東京を離れている間に、彼はバイトをしながら学校に通ってソムリエの資格を取得した。そして付き合っていた人との間に子供ができたタイミングでワインメーカーに就職を決めて結婚し、私が東京に戻ったのと入れ違うように東京から去った。

一度だけ、デパートでやっていたワインフェアに彼の会社が出店しているのを知った女友達に誘われて、2人で買いに行ったことがある。福島訛りが全然直っていなくて懐かしかった。それから何年か年賀状だけのやり取りが続いたが、それもいつしか途絶えてしまった。

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大人になってから『ノルウェイの森』を読み返した。

色んな意味で未熟だったあの時の私にはこの小説は早すぎたのだ。今なら歪で不安定な登場人物達に共感や愛着を感じるし、これって必要なのか?と感じていた会話やシーンの全てが、大人になって続きを生きていく人のために必要だったのだと思えた。

『死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。』本文より

今はこういう文章も肌から沁み込んで全身でわかる。

生と死は地続きだと思う。あらゆることは一本の線ではなく点の連続と集合だと思う。境界は線ではなく水彩絵の具のように常にぼやけて混じり合っている。そして表はメビウスの輪のように裏になって表と繋がっている。あの頃の私は幼すぎて、そんなことを上手く話せる術がなかった。

でもまどろっこしくてやっぱりちょっと疲れるんだよな。初めて読むのには少し早すぎて、読み返すにはだいぶ歳をとりすぎてしまった。

今になって思う。あの頃のあの、恥ずかしくなるような語らいの時間こそが、私達が生きるのをやめずに大人になるためには必要だったのかもしれない。

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先日スタジオジブリの『耳をすませば』を家のテレビで観ていた。京王線の駅のホームや街の風景が出てくるたびにひどく懐かしくて、大学時代の思い出に浸っているうちに、この街に住んでいた彼のことを思い出した。懐かしさに任せて何気なく手元のスマホで「その人の名前 ワイン」で検索をしたら、ワインメーカーから独立した彼が今その界隈ではかなり有名な人になっていて驚いた。

とあるインタビュー記事を読んでいたら、「若い頃影響を受けたものは?」という質問に「村上春樹と尾崎豊」と答えていて、「知ってた。その回答超知ってたわ」と心の中でちょっと笑ってしまった。

人気がある上に出荷数も少ないため、市場に出ると一瞬で消えてしまうという彼のワインを、いつか飲んでみたいと思う。この年齢までよくぞ生きたと乾杯したい。

いい酒は悪酔いしないんだ、と安くて甘い缶チューハイしか飲んだことがなかった私に語ってたよな。














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