#【ポジティブに苦難を乗り越える土台形成】大殺界の三年間
12年に一回の大殺界
わたくし、1997年12月31日、大みそか生まれ、やぎ座。
本記事執筆時は、26歳6か月。あと半年で27歳という大台に突入。「六星占術」によるとわたしは木星人-(マイナス)。2024年は大殺界の最後の年。大殺界とは、
ということらしい。細木先生によると、この世の中に生きている誰しも、六星占術の中では12年に一度、大殺界と呼ばれる三年間がやってくる。「なんだそれ、胡散臭いな」と、六星占術を知った当初のわたしは思っていたが、なんだかんだ2024年、その三年間最後の一年を過ごしている。
MBTI診断だったり、しいたけ占いだったり、六星占術だったり、数秘術だったり。何かの型に自分を当てはめるのが好きだったりする。占いの良いところだけを切り取って信じる癖はあるものの。
なぜかどの占いでも、この1~2年は"運勢最悪"。
最強運ランキングの中に、自分の型が入っているのなんて直近見たことがない。おそらくこれは、数ある占いの中で共通認識が無くとも、自身が今置かれている立場は"そういうこと"らしい。
辛く愛おしい日々が自身を成長させてくれた
そういえば、この間、しいたけ占いの「2024年下半期」新作が公開された。
しいたけ占いは、星座から人間をざっくり12パターンに分けて判断をするものであるが、その素晴らしい語彙力と著者の想像力に、脱帽するシーンもしばしば。
しいたけ占いによると、2024年下半期のやぎ座は、「嵐のような日々を経て、やっと落ち着いていく」らしい。そして、「この2024年下半期を迎えるまでが、「人生の中で一番しんどかった」と感じるぐらいに、これまでの日々が大変だった」人も多いということらしい。
不幸自慢は全くするつもりはない、みんなそれぞれ悩みは抱えていながらも、でもまあ、確かに、自身のこの三年間を振り返ってみると、わたしの人生でこんなにマイナスな出来事ってなかなかいっぺんに起きることってないのではないか?と信じがたいほど、様々なマイナスな出来事があった。一時期、人生に絶望して、死のうかと思ったこともあった。(笑)
そのうえで、今になってそれらの出来事を振り返ってみると、失敗やマイナスの出来事からの学びしかなかった。これらの経験が今の自分を築き上げていると思った。サンクコスト効果が自身の思い出に働いているからなのか、むしろこれらを愛おしいなと思えることが出来る。愛おしい日々が無ければ、自身が精神的に成熟することもなかったのだろう。
わたしはこの三年間、人間的にも、メンタル的にも、レベルアップした。
本記事では、大殺界に起こった出来事と、そこから学んだ出来事について、自身の三年間の振り返りも兼ねて記載する。
【仕事】Top of marketerに鍛えられた事業会社マーケティング部
まずは、仕事面。
わたしは2024年7月いっぱいで、3年間勤めあげた、採用向けSaaSサービスを提供するIT企業を卒業する。
事業会社のマーケティング部にて、メルマガ配信やSEO分野などのコンテンツマーケティングを主に担当した。
三年前、自分自身を鍛えるため、動物で例えれば、世の中の酸いも甘いも知らない草食動物のポニーちゃんであった自分は、ライオンやサラブレッド、なんなら偶像中の伝説の生き物であるペガサスがうじゃうじゃとひしめく今の組織に加入することを決めた。
"ポニーちゃん"からの脱却を目指して
当時のわたしは、何も頭で考えない、人柄と笑顔だけで売り上げを取りに行く脳筋営業だった。ロジカル思考を身に着けているわけでもなければ、何も突出したスキルなど持ち合わせていなかった。
愛想の良さは取り柄だから、お客に気に入られればそれで勝ちの営業スタイル。前職ではそれなりに成果は残していたし、受注スピードや売上金額、アポ数も、研修時代からトップランカーをキープしていた。
ただ、そのまま歳を迎えて30歳になったとき、自分は何かできるようになっているのだろうか。ただの一般ピーポーで、突出したスキルを身に着けて、市場価値が高いビジネスパーソンとなれているのだろうか。
もともとわたしは、自身の仕事のモチベーションの三源泉に「スキルアップ×人間としての成長×人への貢献がやりがい」を掲げているのに、このままでの「何者にもなれない、ただのヒト」のままになってしまうと予測してしまった、二年目の夏。サラブレッドまでとはいかなくても、せめて一人で狩りができる肉食獣ぐらいにはなりたかった。草を食べ続けてのほほんと生きていく、ポニーちゃんのままで30歳を迎えたくなかった。
"百獣の王"直下のマーケティング部
そんなこんなで入社を決意した、マーケティング部。直上司は会社のNo.2である取締役で、仕事ぶりはまさしく、百獣の王のライオンであった。BtoBマーケティングの領域は幅広い。事業戦略設計から施策に落とすまで、とにかく多くのチャネルがある中で、この上司はどの領域も一人で回した経験があるし、人材大手でもともと営業出身、いまじゃ中途転職市場において誰もが名前を聞いたことがあるサービスを立ち上げたビジネスパーソンだ。とにかく頭がキレる。何よりこの上司のすごいところはSFA領域に精通している点だった。とにかく細部まで作り込まれた顧客管理ツールであるSalesforce。他社の事情を知るマーケターは、「御社のSalesforceは作りこまれすぎててマジやべえぞ」と口を揃えて言う。これを駆使し会社の事業戦略を考えていて、Salesforce社から「Top of marketer」という称号も受賞されたことがある人であった。
キング。閣下。ボス。組長。重鎮。ヤ、ヤクz…というような言葉が本当に似合う、コワモテ上司の下でわたしは3年間働いていた。
「生ぬるい仕事ぶりを発揮するんだったら、お前を食ってやる」というスタンスで常に接してもらった。今となっては、期待をしてもらっていたからこそ、そう接してくれたんだと思う。"顧客・カネ・情報"という、会社の無形資産に関する領域でミスをしてしまった際は「ふざけんな」「温い仕事ぶりをするなら帰れ」と強く叱責を受けた。ちなみにわたしは、娘二人の長女なのもあり、両親に可愛い可愛いと育てられてきた自覚はあって、実家を出るまでは親に叱責を受けたことなどなかったから、入社したての頃は毎日帰りの電車で泣いていたし、仕事終わりにカラオケに行っては、泣きながらストレス発散でXJAPANの紅を大声で歌っていた。自身のあまりの仕事の出来なさと、能力のなさに打ちひしがれたことも多かった。
この三年間、上司が求めるレベルには到底追っつけなかったし、上司の右腕になるにも程遠かった。上司が標高3,776mの富士山だとしたら、まだ自分のビジネスレベルが日本で一番低い山の弁天山(標高6.1m)だから、まずは息ぜえぜえでも頑張って登れるレベルの高尾山を越えられるようにならないといけない。これまで先輩後輩の縦割りがきちっと存在している体育会系部活に所属したこともない自分は、この会社に所属することで、これまで温くあったかい温室で生きてきたんだな、と強く思った。
きつかった。ただ、上司はそれでも成長を望むわたしに、わざとプレスをかけて接してくれていた。飴と鞭の割合が、2:8。ごく稀に配られる飴に、「ご褒美きたぞおおおお!」とパブロフの犬のように食らいついていた自分。この三年で超絶ドMになった気がする。気づいたらあっという間に三年過ぎた。
上司は常に厳しいわけでは全くなかった。ふと考えすぎてしまったり、思考の坩堝に陥ったときは、さりげないヒントをくれて、解まで導いてくれた。(上司はとても頭のキレる賢い人だから、たまにそれでも何を言っているかわかんないこともあったけど)
そして、なにか悩み事があるときや、わたしが浮かない顔をしているときは、必ず声をかけてマネジメントをしてくれた。上司なりにわたしを育ててくれていた、期待をして任せてくれていたのだと思う。
マーケターとしての基礎の基礎を叩き込まれた三年間
本質的なイシューを捉える力(まだ発展途上だけど)、マーケターとしてPDCAを回すための土台作り、数値分析スキル、自身の仕事のスタンスは、上司のおかげでたいへん高くレベルアップすることができた。ポケモンでいうと努力値爆上げ。しんどい環境に身を置くことで、自分を鍛えに鍛えまくった。
本質的に5W1Hを考え、何よりも顧客体験を考えながら日々営業とマーケティングに当たる上司のスタンスから得たものは、計り知れない。
マーケターとしての基礎の基礎、社会人として成果を出すための当たり前のスタンスを叩きこまれ、自分が生温い世界で生きていると気づいた三年間。
次のキャリアは一歩今よりもステップアップし、自身が戦術や施策を立案する立場となることに決めた。やっぱり、突出したスキルや経験で組織を牽引していくビジネスパーソンになりたいという夢は変わらない。この会社で身に着けたことを、この三年間の仕事における総括。
【総括】
学び
成果を出すための、"当たり前のスタンス"
常勝思考
ミスを恐れない
マーケティング活動の中で最優先すべきもの
顧客
カネ
情報
本質的なマーケティング施策遂行のために必要な流れ
数値集計には1ミリのミスも許されない
徹底した数値分析
数値から顧客課題を読み取り、自身の言葉で仮説を立てる
仮説は、Why=「なぜ」なのかを5回繰り返す
施策を実践し、仮説を検証
必ず、施策は振り返りを徹底する
マーケティング部は予算を費やす部署、ウリを生み出す部署ではない謙虚さ
マーケティング×デザインの領域を、各位が信頼して自身に任せてくれていたからこそ、自身の強みを伸ばすことができた。可能性を感じることができた。
感情
業務が難しすぎる。上司の求めるレベルが高すぎる。
しんどい。3年間、本当にきつかった。けどこの環境、この上司の下で経験を積めて、心からよかった。上司、一緒に働いていた仲間には、感謝でしかない。みんなに育ててくれてありがとうと言いたい。
一般の会社と比較しても、大変レベルが高い組織でキャリアを積むことができた。これは、どのBtoBマーケの事業側に行っても、通用する経験になる。
そして人生でこれ以上怖い上司の元で働くことはもうないだろう(笑)
【家族】不自由ない生活から一転。両親の離婚、経済状況の変化、そして母親の病気
急に上項と話題が変わるけれど、そういえばこの数年はプライベートも、だいぶしんどかった。上手く気晴らしができなかったら、健康害しちゃうんじゃないかと思うぐらい(笑)
可愛い子には旅をさせよ、強固なメンタルの構築
わたしは大学に入るまで、何不自由なく育ててもらったという自負がある。父親は大企業の商社マンで、週末も娘のおもりをしながら(小さいころ、日曜のオフィスに連れて行ってもらったことも幾度もあった)仕事をする大黒柱、母親はアパレルストアに勤めて週末だけ書道の先生をしていたりと、地方のしがない一般家庭ではあったが、愛情をたくさん与えられてきたし、それなりに裕福な一般家庭であったはずだ。
わたしが大学生のとあるタイミングで、商社マンだった父親は会社を退職し事業を立ち上げた。しかし幸先が悪くうまくいかず、結果的に負債を負うことになってしまった。そこからわたしは、学費を払えず卒業できないかもしれない、という状況下に一気に状況が逆転し、居酒屋やら受付嬢やらテレビ局やらでいくつもアルバイトを掛け持ちしながら、自身の生活費と学費を稼ぐために齷齪働いた。
(多分この頃から、同世代と比較をして波乱の人生を歩んできたためか、急激に自身のメンタルが強固なものになっていく)
親の離婚、母親の癌、人生の停滞期
父親がそのような状況になって、両親の仲は急激に冷え込んでしまい、今から3年前、両親は熟年離婚をするという決断をした。わたしと妹が大学を卒業し、娘たちが自身の力でお金を稼げる年齢になってからと決めていたらしい。娘2人が双方大学受験に失敗し、私立大学に進学することとなってからというもの、わたしたちが卒業するまで血反吐を吐いて働きながら、2人の自立を支援してくれた。
今となっては、こんな状況になったとはいえ、親に感謝の気持ちばかりだし、わたし自身も子どもを持つとなったら、子どものやりたいことを応援する、両親みたいな親になりたい。
そうして親たちは、娘たちが独り立ちをしたタイミングで熟年離婚をしたのち、別々の道を歩んでいた。
一年前の2023年。地元新潟を離れ、埼玉の親戚の家の近くで一人暮らしをしている母親が、ある日、「血便が出るから病院行ってくるわ〜」。と、病院に行った。
結果、大腸がん。ステージ4。肺にも転移。
幸いにも肝臓には転移していなかった。
なんでこのタイミングなのだろうと、途方に暮れた。母親がやっと第二の人生を歩むため、1人暮らしを始めたばかりだったのに。このような状況の仲で何もできない自分にも腹が立ったし、一人暮らしでただでさえ生活が辛い定年を迎える母親に楽な暮らしをしてもらいたいのに、手元からガサっと大きい金額を出せない自分にももっと罪悪感が湧いた。
母親の泣き顔は小さいころからずっと見たことがなかった。子どもには見せないようにしていたのだろうが、癌とわかってからは、母親はずっと塞ぎ込んで、毎日泣いていた。
わたしはかける言葉もなくて、急に親が目の前からいなくなる恐怖を感じた。周りにはポジティブに振る舞うけど、1人になると塞ぎ込んでしまう母親をこのまま放っておいていいのだろうかと、一緒にいることができる時間はあと数年も残されていないという恐怖で、鳥肌がたった。
大腸切除の手術が終わり、切除した母親の大腸を見た。親指と人差し指で丸を作ったぐらいの円形程、少しだけ黒ずんでいる部分がそこには存在していた。あ、これが広がるだけで、人間って死んでしまうんだ、と儚く思った。大腸に癌が広がってしまうと、腸閉塞となって腸が破裂することがあるらしい。
元々、わたしは高校卒業時に実家を出ていたし、精神的な成熟も同世代と比べて早い方であったから、金銭的にも精神的にも、親に依存はしていなかった。親が離婚するやらのすったもんだで揉めているときも、上手く自立心を身につけた人間に育ててもらったおかげか「親は親、自分は自分だ」と今でも割り切っている。子供のわたしにできることはなんだろうか。ずっと考えていた。
「自分が自ら不幸になる選択をしてはいけない」
そんなとき、当時付き合っていた彼から言われた言葉に救われた。
「親は、わたしが笑顔で、幸せに過ごすことを望んでいるだろう。わたしは、自分が不幸せになる選択をしてはいけない」
そうなのだ。周りがしんどいからといって、自らがマイナス方向に進む必要はない。幸せは、自身を大切にしている人間にこそ寄ってくるもの。そういう人が、他人を幸せにできる。わたしは彼からその宝物みたいな言葉をもらってから、親が元気で動けるまでは、楽しいという感情を一緒に過ごそうと決めたし、なによりも自分自身をまず幸せにすることにした。大切にしようとした。
時間は有限だ。
だからこそ、親がやりたいことを一緒にしてあげたいし、行ったことないところにも連れて行ってあげたい。
親が生を全うするとき、「生きててよかった!」「あんたが子供でほんとよかったわ!最高だった!」と言ってくれれば、わたし冥利に尽きる。
そのときの彼とは、結婚するタイミングのすれ違いで別れてしまったけれど、わたしを成長させてくれた恩を感じている。この言葉は、自分の生き方の指針となっている。宝物のような言葉をくれて、心から感謝をしている。この一連の出来事から、学んだことは下記の通りである。
【総括】
学び
自分が不幸せになる選択をしてはいけない
自身を幸せで満たしているからこそ、他人に伝播できる
どんな状況であれ、わたしは現在が幸せ度100%であるといえる
過去と他人に自分が左右されてはいけない
時間は有限
感情
とにかく、今できることをする。未来がよくなるために行動をする。
過去は過去で変えられない。これはもうしゃあない。過去を振り返って、自己内省し、次また同じことが起きらないようにする、NA策定こそが重要。
いやあそれにしてもお母さん。とにかく感情をポジティブに楽しく生きてね。ネガティブでいると時間がもったいないからさ。
過去があるから今がある、そんな自分を可愛がる
この三年間、波乱万丈でしんどい出来事が重なった毎日であったけれど、わたしはこれらの出来事があったからこそ、明るくも思慮深い大人になれたと思っているし、そんな自分がかわいい。
これまでの経験が自分という人間を形成しており、それらの経験がないと自分と呼べない。
過去から学んだものは、自分が気づいていない以上にたくさんあり、それらの経験は自分の大切な価値観を作り上げている。
どんなに辛くてもポジティブに生きるであったり、自分の居場所を複数作ってネガティブに引っ張られないような生き方をするとか、仕事のストレスは仕事で発散する、という考え方であったりとか。
齢26にして、人生の深みを若いうちに経験できて、よかったと思う。
また、こんな大変なときに支えてくれるのはいつも周囲の大切な人たち。素敵な人間にわたしは囲まれている。
これらの壁にぶち当たる度に、わたしは一人では生きていけないのだな~と思う。
職場の、わたしの大好きなお姉ちゃんから「素敵な人間には、素敵な人間たちが集まってくる」と言ってもらった。
このお姉ちゃんを含めて周囲に感謝をしながら生きていきたいし、そろそろ大殺界の停滞からも抜け出せつつあるから、次は安定と中長期的な計画を立てながら生きていきたいなあ。大殺界抜けたら本番、がんばろうね。
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