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ホットコーヒーをおかわり

座り慣れたファミレスのソファで、目の前にいる友人は憤慨していた。外は生憎ではない雨だ。もう何日間降り続けているのかは忘れたが、どうしても雨を降らせなければいけない勢いで、糸くずのような雨が垂直に降っている。風はなく、雨季の湿度が容赦なくわたしの心を憂鬱にさせてくる。

友人はひとり怒り続けている。心を落ち着かせたいからとホットコーヒーを飲んでいたかと思えば、喋る言葉の量に比例して怒りが増していくようで、まだコーヒーが温かいうちに季節のパフェを注文し、食べ始めた。このパフェを食べ終わる頃には彼女の気持ちは平静を取り戻しているだろうか。食べ終わらなければそれは分からないなとわたしは思う。

会社で仲良くしている先輩が会社にいる誰への報告もなしに結婚し、一年が経っていることを彼女は本人から知らされたらしい。誰にも報告していないのならばなんて平等で決心の固い人なのだろうと思うが、彼女はその“誰にも”に自分が含まれてしまったことを怒り、そして悲しんでいた。なんで教えてくれなかったんだろうという言葉は、ファミレス店内の騒音に吸い込まれ、なかったことにされた。

SNSでフォローしている友人たちは、結婚をしたり子どもが産まれたりすると必ずSNSで教えてくれる。その投稿に何も考えずにいいねを押しながら、アプリを閉じたあとに、自分はきっとSNSで報告もしなければ、親しい間柄の人たちに報告するのでさえ嫌がるかもしれないと思った。報告をしなければ、その人が結婚しているかどうかを知る術は結婚指輪か、その人の行動のや住んでいる場所の変化、もしくは役所に行って確かめるほかない。結婚指輪に気付かなかったの?と聞いたが、先輩は会社には結婚指輪をつけていってはいなかったらしい。徹底している。女性同士の“誰にも言わないでね”が“言いたくてたまらないの”に聞こえるくらい、先輩の秘密はほんとうの秘密だったのだ。

それから彼女は自分と先輩がどれほど親密だったのかを話してくれた。わたしは当然のように先輩のことを女性だと思っていたけれど、先輩はどうやら男性のようで、しかし性別のことはどうでもよかった。彼女は権利の話をしはじめている。今まで恋愛の相談や仕事の相談や、あらゆることを話してきた自分には知らされる権利があった。権利は主張するものか、与えられるものか、わたしは分からなくなった。権利という視点から考えるならば、先輩には義務かどうかの選択をさせてあげるべきだ。当然、先輩には誰かに報告する義務は発生していない。

パフェ用のグラスはどれも独特な形をしていて、きれいに食べるには柄の部分の長いスプーンを使う必要がある。でもパフェグラスは必ずしもパフェのみ盛り付けしなければいけないわけではないし、持ち手の長いスプーンはパフェを食べるとき以外にも使っていい。ただなんとなく互いが協力すれば、人間は美味しいパフェをお腹いっぱい、なにひとつ取り残すことなく食べられるというだけだ。彼女のスプーンはパフェの三層目あたりを突破し、残りはあと二層。しかし怒りはおさまっているようには見えない。

その先輩には配慮する気持ちが足りなかったのかもしれない。先輩はなぜ一年も黙っておいてから秘密を明かしたのかを丁寧に説明する義務はあっただろうし、彼女にはその理由については知る権利があった。しかしそれがなかったために、彼女のなかでは「そもそも知る権利があったはずだ」に自然と変換されてしまったのだ。気付かないうちにおこなわれる変換に彼女は戸惑っているはずだが、それを元に戻す術を知っているわけではない。だから今、とにかく怒り続けて自らを整理していっている。

パフェをついに食べ終わった。雨はより一層つよく降り、地面や屋根にあたる音は激しさを増している。もう一生やまないのかもしれないと思わせる雨でも、意識が逸れた瞬間からやみ始めることがある。わたしは冷めたコーヒーを飲み干し、人の怒りがおさまっていく様子がいつ見られるのかと、新たにホットコーヒーを二杯注文した。

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