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甲子園と、吹奏楽。敗れた夢を球児に託して

ジリジリと照りつける太陽。時折さぁっと吹き抜ける潮風。  

目の前に広がる世界を未だ信じることが出来ぬまま、私は甲子園で必死になって演奏をしていた。「お願いだから、あと一勝」。そう、何度も何度も頭の中で唱えていた。

自分たちが西関東大会へ進めなかった悔しさを、我が校の球児に託して。

私が所属していたのは、新潟県内では野球部の名門と呼ばれる高校。

小学生のころから毎年欠かさずに甲子園をみていた私は、吹奏楽部の一員として甲子園で演奏することが夢のひとつだった。

しかし、野球部の県大会は吹奏楽部の大会準備期間とだだ被り。高校2年生の夏、もともと決まっていた学校での合宿と、野球部の大会が重なることとなった。

1日目は通常通りのパート練や個人練。2日目は、朝はパート練をして、昼間は県大会の応援、そして戻って30分休憩して合奏。大変だったけど、そんな疲労さえ笑いあって、なんだって楽しめたあの頃。「野球部が甲子園に行ったら、西関東大会と日程被るかもだね」なんて話さえしていた。

でも、私たち吹奏楽部は次の大会に進むことはできなかった。

毎晩遅くまで演奏もしたし、合宿もした。楽譜には、譜面を読むことなんてできないくらい指揮者からの指示が書かれてあった。それでも、西関東大会に進むことは叶わなかったのだ。

一方で、野球部は甲子園に駒を進めていた。そのため先輩たちは引退せず、野球部の応援が終わるまでと部活に残ってくれた。でも裏を返せば、野球部が負けた時点で、先輩たちともう演奏はできなくなるのだった。

そして、先輩たちと過ごす最後の夏がついに始まった。吹奏楽部は、全員で応援に駆けつけた。新潟から直行バスで約8時間。初めての長距離バスで、寝ても覚めてもまだ着かないことに驚いた。

到着したのは、たくさんの蔦が絡まった阪神甲子園球場。「本当にこんなに蔦があるのか」と驚くと同時に、小学生のころから「甲子園で演奏する」という夢を持っていた私の心は静かに震えていた。

そして迎えた初戦。吹奏楽部の場所に案内され、各々が楽器を準備。曲は打者によって異なるため、野球部と何度も確認しながら、試合開始を待った。  

ついに試合が始まる瞬間。「ウーーー」と鳴るサイレンは、やはり生で聞くと高揚し、「本当に来たのだ」とこの時初めて甲子園で演奏できることを心の底から実感した。

1番バッターの曲は、『ヤマザキ一番』。最初から全力で応援した。ヒットが入ると演奏する『ヒットファンファーレ』では、みんな嬉しすぎて、どんどんテンポが早くなっていた。5回に先制したときなんて、ぐちゃぐちゃで曲として認識できないほど。それだけ、みんなが一つの願いを持っていた。

その後、1点を守り続け、迎えた9回裏。最後の3アウトを取るまで祈りながら見ていた。そして相手方が3アウト。私達の高校が、初戦を勝ち抜いたのだった。

吹奏楽部を含めた応援団は、一度新潟へ戻り、数日で再度兵庫県へと向かった。

そして、迎えた二戦目。1回裏に相手に先制されながらも、4回表で本塁打で1点を取り戻す。その後は、どちらも点を取ることができなかった。ともに1点のまま迎えた9回。こちら側の攻撃である9回表を0点で終えると、相手の攻撃だ。サヨナラで負けてしまうことだってある。

「今日で終わるかもしれない」
そう考えながらも私たちには祈ることしかできなかった。

すると、相手方も3アウトで終わり、延長戦が決まった。回が進むたびに胃キリキリと痛むような思いをしながら、見守ること3回。12回表で我が校が何とか1点を勝ち越した。12回裏も祈るような気持ちで見守り、3アウトを見届けた。もう一つ駒を進めたのだった。

久しぶりに新潟の高校が進んだ3回戦。県内は浮き足立っていたようだが、応援団の私たちは感傷に浸れたのは一瞬でそのままとんぼ返り。夕方に新潟に着くと、翌日の夕方に高校を出るとの通達があった。弾丸で再び甲子園へ。それでも、野球部が懸命に頑張っている姿を見たら、このくらい何でもなかった。

しかし、3回戦の相手は毎年甲子園で名前を見る高校。素人の私でさえ、難しい相手なことは分かっていた。それでも、3回戦まで進んだという事実が、応援団を油断させたような気がした。

3回戦が始まってみると、点差をつけられたのはあっという間だった。3回を終えた時点で7点差。私たちの高校はまだ点を入れられてすらいなかった。

迎えた6回。エースが四球で出塁すると、犠打なども含め、走者を二・三塁に。そして、左翼線三塁打で得点。抜ける瞬間は、「お願いだから取らないでくれ」と、手に汗を握りながら祈った。ここで2点、さらに1点を返し、「このまま勝てるんじゃないか?」とすら思った。しかし8回裏で相手がもう1点。9回表の攻撃にかけるも、三者凡退で終わってしまった。

最後、一塁まで全力で走る選手の姿と、走ったまま一塁ベースに突っ込む姿は、今でもはっきりと思い出せる。それだけ全力で挑んだ試合であり、応援をしていた吹奏楽部も自分自身の夢を、彼らの夢に重ねて祈るように演奏していた。

あの夏を終え、幾度となく夏を越えた。それでも何度だって思い出せるし、毎年甲子園の季節になると蘇ってくる。青くて、全力だった夏。もう二度と過ごせないが、思い出とともに、今年も甲子園の球児にあの夏を重ねる。

この記事は2019年に書いたエッセイを編集し、
再度公開しています。

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