アンチコメとロックンロール
「音楽活動を10年続けています」
こんな話をすると、いろんな返事が返ってくる。
「頑張ってください!」
「私も夢中になれるものがあったらなあ」
「好きなんですね〜。」
ありがたいお言葉をいただけることも多い。しかし、中には
「え?何目指してんの?」
「夢、まだ追ってるのw」
「奥さんがかわいそう」
と言ってくる人もいる。どう考えるかは個人の自由であるが、少なくとも私はこれらのことを言われていい気持ちがしない。そもそも、冷静に考えればこれらの言動はおかしいのである。
私が何を目指そうが、どんな夢を追っていようが彼らには決して関係のないことである。ましてや人の家庭に口出しをするなど言語道断である。
私のような無名のミュージシャンが以上のような批判を受けることはそこまで多くはない。しかし、著名な芸能人やアーティストとなると、話は変わってくるようだ。
ここ数年、SNSでの心無い発言が元となり、自ら命を断ってしまった著名人のニュースをよく目にした。彼らに寄せられた心無いメッセージは、私が受けた批判とは、比べ物にならないものに違いない。実際にメディアでも掲示板やコメント欄を使った執拗な誹謗中傷は止めるよう呼びかけているが、彼らが手を緩める気配はない。一体何故か?
私が思うに、彼らは暇という状況に混乱しているのだと思う。生物50億年の歴史を見渡しても、これほど暇を持て余している生き物も珍しいのではないだろうか?特にここ数年は顕著だ。
お腹が空けばスマホひとつで様々な食べ物を注文することができ、映画を見たければストリーミングサービスで、様々なコンテンツを視聴することができる。なんだったら、恋人探しもできる。衣食住がスマホひとつで完結し、一日を布団の上で過ごすことも可能だ。そして残されるのは大量の暇な時間である。
対して動物は、3大欲求を満たすことに余念がない。私の山の中にあった実家の近くに住んでいたタヌキがいい例だ。
彼らは昆虫でも木の実でも、何でもよく食べる。中には近くの大学の女子大生に媚びを売るという姑息な手段を使ってドッグフードを手に入れるものもいる。そしていつの間にか子供が増えて、子育てに勤しんでいる。
誹謗中傷に余念がない人々は、有り余る暇に任せて他者を攻撃するという最も原始的な方法を用いて、自己主張をしているのではないだろうか?有名な生物学者コンラート・ローレンツも、「攻撃」を生き物に備わっている最も原始的な本能と定義している。現代的な機器を使いこなした挙げ句、原始的な本能を剥き出しにしているとあっては、皮肉もいいところである。
ここで誤解してほしくないのは、私はスマホによって世の中が便利になっていくことを否定しているのでもなければ、否定的な意見すべてを批判しているわけでもないということだ。本当に間違っていると思うことを伝えるのは勇気が必要であり、それができる人は立派だと思う。
しかし、暇に任せてよく知りもしない他者を感情のままにこき下ろすのは間違っている。
では、暇によって生まれたやり場のない怒りはどこへ向かえばよいのか。ここで私から提案がある。
ギター片手にロックンロールをしてみてはどうか?
かつてのロックスター達によって書かれた曲は、内なる怒りを歌っているものも多い。
特にクラッシュやラモーンズ、セックス・ピストルズなどのパンクバンドはその傾向が強い。音楽という武器を使って社会のあり方に一石を投じている。
怒りに任せて掲示板に書き綴っても、アンチコメで終わってしまうものも、正当な手段と技術を使って表現すれば、多くの人に共感される芸術にも成りうるのである。
「そんなの屁理屈だ!」という人は、YouTubeなどのアンチコメに続く返信を見てみれば良い。アンチコメに対する批判で炎上していることなどざらである。もし、自分がそんな目にあったらと思うとゾッとする。共感なき批判はさらなる批判の的となるのだ。
「最近の若者は自己主張をしない」
この意見に対して、パワーハラスメントなどに代表される〇〇ハラスメントによって抑圧されているからだとする意見をよく見かける。たしかにその節もあるかもしれないが、もう一つはアンチコメに代表される心無い言動により批判の的となることを恐れているという側面も少なからずあるのではないだろうか?
我々はスマホやネット環境の充実によって様々なことができるようになった。それなのに、ネット上の批判を恐れて萎縮してしまっては本末転倒である。
そして必要に応じてどうしても否定的な意見を伝えなければならないのであれば、共感を呼ぶ表現と手段を心がけることで、自分も相手も心が傷つく場面はどんどん減り、気持ちも前向きになり、いろんなことに挑戦していけるようになると思うのだ。
ロックンロールは優しい叫びだ。
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