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【映画評】『桜桃の味』~無意味さを知る意味~

最近、パソコンを買い替えてフォルダのお引越しをしていたら、或る映画について学生時代に書いた文章を「発掘」した。いま読み返してみると、文章はごつごつと硬くて読みにくいが、これはこれで当時の自分らしい。何かを書かずにはいられなかった、あの衝撃を思い出し、他の方にもこの映画をぜひ味わってもらいたくて投稿することにした。


「映画を観る」とはどのような体験なのか?


 いかなる映画であれ、観る者に対して、冒頭からその中で前提となっている「世界観」を一気に共有させることは難しい。物語の進行にともなって、徐々にその世界で扱われている「常識」を把握するに到るまでは、映画と観る者との間に、何かしらの違和感が介在し、なかなかのめり込む状態まで陥らないものである。

しかしながら、映画の中の「世界観」をシーンの端々から感得していくことで、両者の距離は次第に接近し、観る者も映画が物語る世界にどっぷりと入り込むことができる。それはまた観る者が登場人物の視点に同一化することを可能にし、心の機微に感情移入したり、ストーリー展開の動向に感情も揺さぶられることとなる。映画を観ることの醍醐味は、まさにこのハラハラ・ドキドキといったスリルや胸をキュンと撃つような感覚を惹起させる作用にあると言えるだろう(もちろん、それは映画のもつ魔術的な効果であるのだが)。

『桜桃の味』は、日本人に恐らくあまり馴染みのないイスラム文化が舞台背景になっているせいか、その意味でなかなか対象との距離を拭い去ることができない映画である。わずかな賃金で苛酷な労働を強いられている人々やコーランを学ぶ神学生といった映画に登場する人物の、言動の裏にある価値観や生活の前提となる基準が判然としないだけに、なおさらそのように感じられる。しかしながら、そのぶんストーリーの奇抜さが巧みにその距離感を忘れさせてくれる。
 
主人公は自分で掘った穴に入り込み、それとは知らぬことにして、穴を土で埋めてくれる人間を探してまわっている。だが、主人公が死を決意した経緯や、その背景にある筋立ては一切語られない。主人公は自らの「死」を目的に掘られた「穴」に埋没するために、ただひたすら躍起になっているのだ。
 
とはいえ、イスラム諸国では自殺と自殺幇助のどちらも宗教上の罪であり、主人公の願いを叶えてくれる人物はなかなか現れない。主人公が穴を埋めてくれる報酬として金銭の譲渡すら用意しているにもかかわらず、お金がないためにやむなく入隊している若い軍人、その日暮らしの労働者にさえ拒まれてしまう始末である。  
 
そんな折、娘の高額な手術代を払えずに、やむなく「穴埋め」を引き受ける老人が現れる。それまで自分の事情など一切語ることすらせず、自分の手を汚さずに他人の力を借りようと、ムシの良い要求をしていた主人公に、老人は諭すように自分の体験談を語り始めるのだ。

実は自分もかつて自殺を企てたことがあったのだが、首吊りを試みて登った桜桃の木の実があまりにも美味であったために、食べることに夢中になってしまい、自殺などどうでもよくなった。むしろ今まで気付かなかった何気ない日常に喜びを見出し、自殺することの愚かしさや生きることの素晴らしさを悟ったのだ、と。

老人による「桜桃の味」の噺を聞くことで、死ぬこと自体が目的と化していた主人公にも、何かに目覚めたかのように心変わりの気配が生じるのだが…。

大逆転の展開への期待とは裏腹に、それでも主人公はその晩「穴」に入り込んでしまう。穴の中から映し出されるのは闇夜に光る満月のみ。だが老人は訪れず、やがては夜も白み始め、朝錬で穴の近傍を走る軍隊の掛け声がおぼろげながらに聞こえてくる。果たして主人公との約束は覆されたのか!?

観る者の没入が最高潮へと達する刹那、映像は忽然と「映画」であることを辞める。画像は突如として映画の撮影現場そのものとなり、監督による撮影終了の合図とともに、登場人物がスタッフと談笑している様子や、映画の「物語」とは関係のない、現実の撮影現場の普段の風景が映し出されるのだ。

主人公の視界=映像に自己の視点を重複していた我々は、突如として裏切られ、なかば強制的に映画を観る過程で忘却していたあの距離感が再び甦ることとなる。そして今まさに、映画という虚構の「穴」に没入しようとしていたのは、観る者=我々自身であったことが強烈に意識させられる。

カメラを含めて総ての視点を相対化し、観る者を一気に突き放すこのラストシーンは、映画があくまで「物語」に過ぎず、少なくとも観る者にとっての「現実」ではありえないことを決定的に告げてしまう。

どんなに真実に準拠した映画であれ、「他人の物語」であることに変りはない。映画を見終えた後の、あるいは夢から目覚め、現実に引戻された瞬間にもたらされる、我に返ったときの興醒めの度合いは、物語への没入が激しければ激しいほどいっそう大きなものとなる。
 
それでは、「映画を観る」つまり「虚構の物語を体験する」ことに、もはや何らかの意義など存在するのだろうか。あの主人公のように、無意味な「穴」にもう一度入り込むことに果たしてどれほどの意味が残されているというのか。

『桜桃の味』は、観る者にとって「映画=物語」が宿命的に虚構であることを最後の最後で自ら暴露してしまう。だが、にもかかわらず、いやそのことによってこそ、『桜桃の味』という映画は、まさに観る者の人生において、映画の中に出てきたあの老人による「桜桃の味」の噺の役割を果たそうとしているのだ。そう、この映画が文字通り観る者にとっての「桜桃の実」となるために

映画とはあくまで虚構の「物語」であり、本当の生ではないことを最後に曝け出すことが、観る者に自身の現実を放棄して映画という虚構の「穴」に入り込むことの「無意味さ」を気付かせる。そして、それぞれが自分の「現実世界」へと回帰し、ただ生きていることがただそれだけで素晴らしいのだと諭すのだ。主人公がそうであったように、この映画を観た者はその体験を通して、まるで「桜桃の実」を味わったかのように「今この現実に生きること」の喜びや意味を顧みることになるだろう。
 
「物語」など所詮、無意味な虚構に過ぎないと囃し立てることは容易い。むしろここでは、「物語」が虚構であることを自白しながらも、なおかつその存在意義を観る者に与えることができるかどうかが問われているのだ。

映画『桜桃の味』は、虚構の無意味さに自覚的でありながらも、そのことを徹底的に引き受けることで「物語」のもつ積極的な役割を観る者に提示している稀有な作品である。

この映画がもたらす魔術は、世界観やストーリーを通して観る者を「物語」に没入させることに止まらない。むしろ「種明かし」をすることで、「映画を観ること」の意義、ひいては人生の中で「無意味さを知る意味」すら感得させてくれるのだ。


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