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紫陽花と僕

それは梅雨のこと
僕は大学2年生で、平日でも時間を持て余していた

10時に目が覚める
枕元のカーテンを退けると、建物に遮られながら、どんよりとした重い雲が立ち込めているのが見えた。
頭の左奥にモヤモヤするような違和感を抱えて、額に手を当てる
この違和感は昨日のビールのせいか、重たい気圧のせいだろう

重たい身体をベッドに横たえながら、僕の住んでるアパートの向かい、同じく3階に住んでる彼女に電話をかける
なかなか彼女は電話に応じなかった、いつも電話に出るのは遅い彼女だったが、今日はその中でも特に遅かったように感じる
40秒くらいのコールの後に、連絡の通じる気配があった

「・・・何?」

気だるそうな彼女の声、僕と同じように、さっきまで寝ていたのだろう

「少し歩かないかい?」
「・・・眠いんだけど」
「無理に誘う気はないよ」
「わかった。家まで来て」

僕は床の下に無造作に投げ捨てた服を無造作にかき集めて、それらを一つずつ身につけてから、財布とスマホ、尻ポケットに煙草を突っ込んで、家のドアを開けた

6月の蒸すような重くて暑い空気が、アパートの中にまで侵入していることを感じる
傘立てからビニール傘をとって、向かいの彼女の家に歩いた

彼女の部屋のドアを3回ノックする。返事はない、僕はドアを開ける
彼女は外出している時以外は鍵をかけないのだ

部屋に入ると、彼女は机の上の小さな鏡に向かって、髪をとかしている最中だった

お互い、何も言わず。その空間は沈黙と、微妙な距離だけが支配していた

髪を溶かし終わったと見える彼女はパジャマのボタンを外し、ズボンを脱ぎ、下着だけになると、クローゼットから紺の7部丈と黒いスカートを履き、最後に白い靴下を履いた

「行こっか」
元気も抑揚も感じられない言葉だった
「うん」

2人でアパートの階段を降り、外の道に出る
「梅雨はこんな天気ばかりだね」
彼女は空を見上げたまま何も言わなかったが、その目からは肯定の意思が汲み取れた

アパートから少し歩くと商店街があり、商店街を小道に逸れると住宅街がある住宅街の中を進んで、狭い道路の中を歩いていると、コンクリートから石の敷き詰めに変わる緑道が出てくる。この道を歩いていくと、東屋がポツンと建つ公園につながる

緑道に入るまでの間、お互いに何も話さず、下を見たり前を見たりしながら、各々の物思いに耽っていた

公園に入ってから、僕が口を開く

「僕はここの公園が好きなんだ」
「そうなの?」
「道の脇に紫陽花が植えられているだろ?僕は紫陽花が好きなんだよ」
「確かに、綺麗ね」

緑道の脇には紫陽花と広葉樹が交互に植えられていて、紫陽花は紫や青の花を丸く大きく咲かせていた、広葉樹は青く茂り、晴れだろうと雨だろうと、その緑道に陰を落とした

「今日は来てくれてありがとう」
「別に、いつものことじゃない」

僕は苦笑する

「あなたのそういうところは嫌いじゃないわ、私だって急にあなたを呼ぶときはあるのだし、誰にだってあるわよ、不意に、誰かと歩きたくなる時が。
結局、人同士なんてエゴの押し付け合いよ、それこそが正しい世界の周り方だと思うわ」
「本当は不機嫌なのかい?」
「別に、ポリシーよ」

しばらく沈黙して、雨の予感を感じながら、僕らは東屋を目指して歩き続けた

今度は彼女の方から話し始めた

「どうして私と付き合っているの?」
「好きだから」
「どうして私のことが好きなの?」
「綺麗だから」
「どうして私のことを綺麗だと思うの?」
「それを的確な言葉に表現して、君に伝えることができればどんなに素敵だろうね、でもごめん。僕はなぜ僕がオーロラが好きなのか、紫陽花が好きなのか、それを的確に表現できたことはないよ、君についても同じことさ。僕がなぜ君を好きなのか、それを正確に表現できる自信は、今の僕にはまだないよ」
「そう」

彼女はそこで質問攻めを止めたが、彼女の顔色はどこか爽やかだった。どこか得心の行くところがあったのだろうか。

「僕がこの街に来て間もない頃、偶然この公園を見つけたんだ、その時もちょうど梅雨だった、この公園を見つけた時、初めて僕はここで生きていける気がしたよ」
「よかったじゃない、私はまだそんな自信はないわ」
「そうかい?君はどこでも生きていけそうだよ」
「そんなことはないわよ」
2人で少し笑った

緑道の脇は苔むして、連日の雨で青々としているようだった

その時、頭の上に水滴が落ちるのを感じた
少しずつ、雨が降り始めたようだった

「少し降ってきたね」
「こんなに重い雲だもの、当たり前じゃない、まだ傘はいらないわ」

道に敷かれた石に丸い水滴の跡がついて、水滴は次第に多くなり、やがて丸ではなくなっていった

「雨の中で踊ることって、気持ちいいのかしらね」
「さあ、でも気持ちはわかるよ、不意に傘と鞄を投げ出して、雨の中ではしゃぎたくなる気持ちは。なぜそうしたいのかわからないけれど、そうしたくなる時が」
「きっと雨が全てを洗い流してくれるって、信じたくなるのよ。仮にそうではなかったとしても、そう信じたいの。私たちは背負っている多くのものを、急に全て投げ出したくなったりするものよ」
「そうかもしれないね」

雨が本降りになってきた

「傘をさそうか?」
「このまま行きましょう、今の私たちに傘はいらない。そんな気がするの」
「そう」

お互いに髪が濡れ、服が濡れていった
彼女の紺色のシャツはさらに濃い色に変わり、僕のブラウンのセーターも濃くなっていった

「あなたに会えてよかったわ」
「僕もそう思うよ」
「私は一人で生きていける強い人間になりたい、でもダメ、私は誰かの温もりを求めずにはいられない時があるの」
「僕だってそうさ、人間は、一人では生きていけないよ」

東屋が見えてきた

東屋へは石段を登っていけるようになっており、それは少し小高いところに建てられていた。東屋に着くと、雨に煙る町を見ることができた。遠くは白くなって見ることができず、空の雲と重なって、まるで空が低くなっているように感じられた

僕はポケットからタバコを一本取り出して、ライターで火をつける。吐き出した煙は、大気の水分を吸い込んで重くなり、東屋の屋根に引っかかって、気だるそうに空に消えていった

彼女もその煙を見つめて、上を見ていた、遠くを見るような、近くを見るような、少し眉間に皺を寄せて、目を細めていた。

彼女が不意に切り出す
「もし雨が、雨が全てを洗い流してくれるのならば、私のことも流し去ってくれればいいのよ」

・・・

少し沈黙を置いて
「そうはならないさ、君は人間だもの、過去を、事実を、忘れることはできるけど、それらが流れ去ることはないよ、過去がなくなってしまったら、現在もなくなってしまうのだから」

彼女の頬が赤く染まっている、蒸し暑さと、それ以外の何かが、彼女をそうさせているように見えた。僕もまた赤くなっているのだろう、顔がとてもほてっているのを感じる

東屋の床に吸い殻を擦り付けて、お互いに東屋のベンチに座りながら、遠くの白く煙る町と、厚く重い雲を眺めていた

彼女が僕の右手に左手を重ねてきた、僕は右手を裏返して、彼女の左手を握り返した

彼女が肩を寄せて、僕に体重を預けてくるのを感じる

僕は座りながら彼女に向き直り、彼女と目を合わせる
彼女は否定も肯定もしない、濁った黒い瞳をこちらに向けてきた
その瞳はやがて薄くなり、彼女は何も言わずに目を閉じた、彼女が瞳を閉じた時、彼女はこの梅雨の雨と一体になったような感覚を僕に思わせた

僕も彼女の顔に顔を近づけて、僕らは接吻を交わした
僕らは幾度となくキスをした、このキスも数あるキスの一つに過ぎない

彼女の唇は、少し熱を持っているように感じられた
僕の頬もとても熱くなっていて、湯気が出ているのではと疑うほどであった

30秒とも、5分とも取れるキスの間、僕らは濃密に舌を絡ませ、腕を絡ませ、お互いの感情を絡ませた

時折少しだけ目を開いては、彼女の濡れて輝く黒髪と、まつ毛に乗っかる水滴などを横目で見たりした

鼻息が荒くなって、絡ませる舌と、動き回る唇同士とが、熱を帯びていくことを感じた

目を閉じれば、お互いの息遣いと、東屋の瓦を伝う雨音を鮮明に感じ取ることができた

僕が何かを思うことと同様に、彼女もまた瞼の裏で何かを思い、憂い、僕を求めるのだろう、僕らが互いに何を思っているのか、それを知る術はない、ただ、この場において、僕らは互いに、きっと互いを必要としているのだろう。僕が思う人間関係とはそのようなもので、いつだって輪郭を持たず、霧のように曖昧で、それでいてそれに縋るしかない僕を、憐れんだり、愛しがったりする。

僕らの感情、熱はやがて空の中に消えて、雨となって、再び大地に降り注ぐのだろう


僕の大学時代のささやかな、梅雨の記憶



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