改修をお願いすることになった奥田工務店さんに初めて家を見てもらった時、真っ先に指摘されたのは、母屋東側にあった松の木でした。 樹高は約18-20m。 叔母曰く、昔は松の木の前で家族の記念撮影をしていたほど大事にしていて、祖母の代までは親戚に剪定をお願いしていたそうです。 残念ながら何年も放置してしまった結果、お化けみたいに伸びてしまいました。 松は怖いです… この松の木が母屋の採風と採光を邪魔していました。 さらに厄介なのは母屋と蔵の間の狭い敷地にそびえたっていて伐採が極
これまで、除籍謄本の記録を基に母屋の築年数を「築推定200年以上」と書いてきましたが、「#1 200年どころではなかった!!~実家の歴史について~」でも書いたように、OMOYA総領の仏壇に供えてあった最古の戒名札の西暦が1732年だったこと、そして古民家に詳しい方がOMOYA総領の茅葺屋根の形状から時代を推定して下さったことを根拠に、この度、築推定200年以上を「築推定300年」に改めました。戒名札なのでもしかしたらもっと古いかもしれません。 2032年には300年慰霊イベ
またまたご無沙汰していました💦 noteではプロジェクトの過程を詳細に記録していますが、「OMOYA総領の今」をお伝えするためにインスタとFacebook(連携)を開設しました♫ 🍀Instagram:omoya-soryo 🍀Facebookページ:OMOYA Soryo 登録、いいね!で応援してくださいねー❣ ただいま、オープン準備中! 最後の追い込み、がんばります👍
OMOYAのある場所は「五箇」と言う地名です。 その地名、見たことある!という方も少なくないと思います。 今から16年前、山形県鶴岡市から神奈川県茅ヶ崎市へ文庫蔵を移築再生して自宅を建てた際、建具に使う和紙を選んでいて偶然富山県の和紙の里「五箇山」を見つけました。 何か縁のようなものを感じました。 確か今年の2月だったかな、OMOYAのご近所さんが全国にある五箇の地名を調べておられたというお話を聞き、「そういえば富山にも五箇山があったな」と思い出し、いつか私も調べてみたい
進行中のOMOYA総領プロジェクトはやるべきことがあり過ぎてnoteの更新が追い付かない! でも書かないとネタは溜まっていく一方! というわけで、久しぶりの更新です! 家と土地の相続登記名義変更の次に待ち構えていたのは、家の中に放置された大量の家財道具の処分でした。 亡き両親が建てた三次の家の片付けの時は特に時間制限もなく、家に寝泊まりしながら片付けられたからよかったけど、総領の場合はそうはいきません。 床が抜け落ち、電気以外のライフラインが使えない状態では滞在先をみつ
OMOYAプロジェクトを進めるには、母屋が「自分の家」であることが大前提。 うちの場合は相続で揉めることは一切なかったのですんなりと相続人は決まりましたが、問題は相続登記の手続きです。 過去に幾度となく手続きを試みようとしましたが、結局手つかずになっていました。その理由はBlog "MIDORismo"に記録していますので興味のあるかたはどうぞ↓ 記事を書いたのは2021年4月。 この時はまだ全ての登記変更を2024年度以降に一気に行うつもりでした。 しかしプロジェク
初めて目次機能を使ってみました。 改修工事は?【音楽活動ブログ"MIDORismo"から一部抜粋】母屋改修を決意した2022年3月の帰省時、先祖から相続した山の管理の相談のため、庄原市内にある株式会社FOREST WORKERさんの事務所を訪問しました。 社長の田村さんのご実家の納屋を改築された事務所に入ると、無垢材の床がとても心地よくて、突っ伏して床にほっぺをスリスリしたくなりました。 早速、改築を依頼された工務店を訊ねてみました。 「奥田工務店さんにご指南いただ
「難問のデパート」状態の母屋。 どこから手をつけるかを考える前に、まず「今後母屋をどうしたいのか」から考えることにしました。 今後どうしたいのか?答えはすぐに出ました。 自分が独占したいわけではなく、親族に継いでもらいたいわけでもなく、ただ後世の「誰か」に愛着を感じてもらえるような場所にしたい。「誰か」が守り続けたいと思ってくれるような場所にしたい。 母屋を通して人の命を繋いでいきたい。 それにつきました。 しかし、年に1,2回帰るペースで改修したとしても、またすぐ
2022年3月。 新型コロナウイルスの影響がまだ影を落とす中、3年ぶりに広島に帰省しました。 覚悟はしていたものの、母屋は荒れ果てていました。 周囲は雑草が生い茂り、内部の畳は歪み、床は抜け落ち、建具の一部が開け閉めできなくなっていました… 問題は続きます。 最も肝心な、水です。 先祖は代々近くを流れる沢の水を使っていました。 うちが最奥地なので、水は綺麗です。 わさびが自生するほどです。 ところが、父が亡くなってからというもの、水の管理ができていませんでした。裏山にあっ
亡き両親は昭和41年(1966年)5月5日、母屋で結婚披露宴を執り行いました。 亡母は三次市作木町香淀の出身です。 二人は見合い結婚でした。 三次市内にある衣料品店の店員だった亡母を、買い物に来ていた亡父の妹が気に入り縁談を持ちかけたそうです。 故郷から遠く 山深い地にある家で しかも長男。 苦労を自ら背負いにいくような縁談話に、母方の亡祖母は首を縦に振らなかったそうです。 しかし、総領の母屋を訪れた亡祖父は「良い家だ」と縁談に賛成し、 躊躇していた当の亡母も最終的には
第2回のテーマは「開業までの拠点について」です。 私は現在神奈川県に住んでいます。 今年に入ってすでに4回広島に帰りました。 3回目までの滞在は最長一週間だったので、隣市に住む親戚の家に世話になったり、リーズナブルな価格の宿を利用したりなどして何とか凌いできましたが、いよいよ改修工事が本格的になり滞在も長期化するので、4回目からは町内の空き家を借りようと考えていました。 雨風凌げて水があれば何とかなるだろうと… しかし、甘かった… 空き家はものすごく沢山あっても「住める空
私の亡き父方のルーツは広島県庄原市総領町という中山間地域にあります。 口伝によると、祖先は平家の落人です。菩提寺は何度も火災に見舞われ先祖の詳細な記録は失われたので真偽の程はさだかではありませんが、家紋は「扇に八の字」なので、武士に所縁のある家だった可能性は考えられなくもありません。 さらに、この上なく最奥地にあり、この場所なら人目につくこともなく落人伝説もまんざらでもないかもと想像します。 ではなぜ今回改修する予定の母屋を「推定約200年」と説明してきたかといいますと