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#3 OMOYAと私 

亡き両親は昭和41年(1966年)5月5日、母屋で結婚披露宴を執り行いました。

亡父29歳、亡母22歳(当時)

亡母は三次市作木町香淀の出身です。
二人は見合い結婚でした。
三次市内にある衣料品店の店員だった亡母を、買い物に来ていた亡父の妹が気に入り縁談を持ちかけたそうです。

故郷から遠く
山深い地にある家で
しかも長男。

苦労を自ら背負いにいくような縁談話に、母方の亡祖母は首を縦に振らなかったそうです。
しかし、総領の母屋を訪れた亡祖父は「良い家だ」と縁談に賛成し、
躊躇していた当の亡母も最終的には亡父からもらった手紙の文面と美しい字から伝わる誠実さに心を動かされ、結婚を決めたのだそうです。

去年(2022年)の暮れに帰省した時、母屋から見下ろす場所に位置するご近所さんへ挨拶に行きました。
亡祖母と同世代の住人さんは100歳オーバーで施設に入っておられるため、近くに住む娘さんが風を入れに時々帰ってこられます。
丁度お会いすることができました。
娘さんが結婚披露宴の模様を振り返りこう語ってくれました。

「お姉さん(亡母)がまるでお人形さんのように綺麗で私ら子どもじゃったけどよう憶えとりますよ。」

亡き両親や先祖の話を第三者から聞けるのは目に見えない絆を確かめられるようでとても嬉しいです。

結婚した二人は隣の三次市で新婚生活をスタートしました。
亡父の職場が遠いのが別居の理由だったようですが、もしかすると別居は結婚の条件の一つだったのかもしれません。
当時、母屋には亡祖母と私が幼い頃に亡くなった亡大叔母が住んでいましたので、亡父は長男として家を出ることに大変な葛藤があったのだろうと推測します。
長男の責任を果たすため、亡父はほぼ毎週末私たち家族を連れて片道1時間かけて母屋に帰りました。私にとって母屋は第二の家でした。
子どもの頃に母屋で撮った家族写真がないか探しましたが、田舎はやることがあり過ぎて写真撮影どころではなかったのかもしれません。1枚もみつけられませんでした。4人で写っている写真自体もマニュアルカメラの時代にあって殆どない中、辛うじて誰かに撮ってもらった1枚を発見しました。

姉が小学2年生の時子ども会の行事に参加。スプーンを加えて立っているのが私。

愛情と笑いに溢れる家族が私は大好きでした。

2011年に父が、2012年に母が、それぞれ癌を患って亡くなりました。
ただ漠然と両親を見送るのは自分が60歳~70歳頃かなとイメージしていただけに精神的ダメージは相当なものでしたが、他界後の膨大な手続きは無情にも待ってはくれず、粛々とやるべきことに向き合いました。

母が亡くなって2年が経ち、二人が丹精込めて建てた三次の実家を若い世代のご家族が受け継いでくれることになりました。
その時も茅ヶ崎と三次を何度も往復し実家の片付けを行いました。

遺品整理というのは本当に辛い作業でしたが、亡父母の生前の様子をより深く知ることのできた機会でもありました。
ある日、初めて目にする亡父の書いた文章をみつけました。
姉と私が通っていた三次市立八次小学校PTAの文集への寄稿文で、1978年4月に作成されたものでした。
当時は高度経済成長期真っ只中。
都会嗜好が強く田舎は軽視されていた時代だったと思います。
そんな中、亡父は流行に惑わされることなく、子どもにとって何が一番大事なのか常に自分で考えながら、私たちに接してくれていたのが文章から伝わってきて、涙がとめどなく溢れました。
思えば、田舎をなんとかしたいと強く意識し始めたのはこの時からだったかもしれません。
私の子どもの頃の思い出も綴られた亡父の文章をシェアします。


~自然と子供たち(亡父・1978年4月小学校PTA文集への寄稿文)より~

私の家族は、妻と長女(小学4年生当時)と次女みどり(小学2年生当時)の4人家族です。

田舎に母が一人居りますので、日曜日などよく家族で田舎に帰りますが、家に着くや否や子供たちの姿が見えなくなります。

何をしているのだろうか、と見てやると、二人でトンボをとったり、花をつんだり、池の方へ行って鯉に餌をやったりして、本当にのびのびと遊んでおります。私共が農作業をして居りますと何か手伝いはないかと言ってついてまわります。私ども子供のころには、手伝いをしながら母子の対話をしたものですが、現在は農作業も機械化が進み、子供の出る幕が無くなってしまいました。

この間新聞を読んでおりましたら、”自然がこわいよウォー”という見出しの記事が載っていました。

「伊豆にある別荘に高校二年生のS子は女子ばかり5人で出かけました。普段はあまり使わないので家の中を掃除して入るように言っておいたのですが、彼女らはそこに泊まらずに帰ってきてしまいました。大きなクモが一匹いたのでこわくなって引き返してきてしまったとのことでした。都会では虫の駆除も徹底して行われるから、たまに見るクモに怪獣のような驚き方をします。」とありました。

生活の中から自然が次第に遠のいてしまう。

虫はデパートで売っているカブトムシしか知らない子供は、何かが欠けたまま成長してしまうでしょう。テレビやマンガ、参考書や問題集から与えられた知識は増えても、本物に接していないがゆえの欠陥はいろいろのかたちで出て来ていると思います。

この様な現実の中で、私達の身近には都会では得ることのできない大自然があるのです。のびのびと育ててやりたいものです。


総領町五箇の大自然と、両親の深い愛情に育てられ、私は「自分には無限の可能性がある」と信じ、世界へ羽ばたきました。
そして、様々な経験を積み、今、総領の五箇へ戻ってきました。
今度は私が母屋を世界に開く「OMOYA」へと変えて次の世代に引き継ぐ番です。
あらゆる世代、あらゆる国の人々がここ「OMOYA」でのびのびと、そして穏やかに過ごしてくれるよう願い、これからもOMOYAプロジェクトを進めていきます。

ここから生まれる新しい未来を信じて。

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