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全てがVになる:バーチャルが生み出す「新しい自分」の可能性が輝く未来(後編)

この連載、「全てがVになる」もいよいよ今回で最終回となります。

前編、中編を読んでいただいた方、ここまでお付き合い頂きありがとうございます。
この後編を初めて目にした方、今回は前編・中編での内容を踏まえた内容にはなりますが、そこでお話した内容についても折に触れて改めて紹介していくので、どうか構えずに後編だけでも読んで頂ければ嬉しいです。


改めて紹介すると、前編「私たち全てがVTuberになる日、その未来の姿」では、VTuberとは一つの仮想人格となりうる、つまり「もう一人の自分」が生まれうる可能性を生みだしうる在り方ではないか?と提案しました。
そして望むままの姿になれるバーチャルの自由さは、「なりたい自分でやりたいことをできる」自己実現に繋がるかもしれないというお話しました。

そして続く中編では、私たちを取り巻く社会の未来の姿にスポットライトを当てました。
VR技術は近い将来に確実に社会に深く浸透し、やがて当たり前に生活の一部となり、ついには現実がその重みを失うほどにVR世界は現実となんら変わらない場所になる。
しかし私たちは「近づきすぎた」ゆえに価値観の違いから広大なVR空間に分散し、無数のコミュニティが浮遊する島宇宙のような世界がVR空間に生まれるだろうと予測しました。

さて、この前編と中編のお話がどう後編に繋がり、そして表題にも謳った「バーチャルが生み出す「新しい自分」の可能性が輝く未来」への扉を開くのでしょうか。

全3回の「全てがVになる」のまとめにして総決算、私の言葉を尽くして語るVRとVTuberの未来の可能性を、ぜひ皆さんに見てもらえれば嬉しいです。


◆VTuberは「ペルソナ」から「仮想人格」へ進化する

まず前半で提示した「VTuberとは仮想人格である」という私の大胆な提案について、もう少し詳しくお話ししましょう。
嬉しいことに前編には多くの反響をいただきましたが、その中で「VTuberは仮想人格なんて大それたものではなく、ペルソナにすぎないのでは」というコメントをいくつか頂きました。

事実、私も前編では「VTuberとは実体持ったペルソナとも言える」と書きました。ここで今一度、心理学用語としてのペルソナとは何か?ということについてお話します。
なぜならそれは、VTuberが与える「可能性」を明らかにする上で、従来の概念であるペルソナと比較することが分かりやすいからです。つまり「今まで」と何が変わるのかを、ここで明確にしようと思います。

ペルソナとは、個人が被る「仮面」として比喩されます。
あなたは例えば、友人と会う時と、学校の先生と会う時とで話し方や態度、自分の見せ方を変えることはありませんか?
例えば会社や学校では大人しく目立たないように振る舞っているけれど、趣味の合う友だちの前では自分の意見を気にせず口にし、友達とも積極的に交流するとか。あるいはその同じ人が、田舎のおばあちゃんの家に行った時は人懐っこく、「孫」として振る舞うとか。

きっと皆さんも、考えてみると場面や相手に合わせて、無意識の内に「ペルソナ」を被っていることに気づくでしょう。別段自分が別の人間になったわけでもないのに、まるで別人のように見える。そうした人から見た変貌っぷりをして、ペルソナは「心の仮面」と言われるのです。

仮面

では、こうしたペルソナ仮想人格としてのVTuberとは、一体何が違うと私は考えるのか?
ここで今一度、前編から引用しましょう。

確かに唯物的に見れば、そこには元の「あなた」だけが存在します。しかしあなたが生みだしたVTuberは、あなたとは別の名前を持ち、別の人間関係を持ち、話し方物腰、時には性別すらも異なる人格としてバーチャル(実質的)に存在することができるのです。あなたと、あなたの視聴者の間での共同幻想として。(中略)
何より注目すべきは、この人格は、Live2Dや3Dモデルというバーチャルな体を得ることで、物理的な「あなた」から独立した身体性を持つことができるということです。実体を持つペルソナとも言えましょう。これこそがVR技術の進歩が可能ならしめた最大のエポックであり、今までは「心の中のもう一人の自分」に過ぎなかった存在を、一個の異なる人格として定義しうると私が考える理由です。

もう少しシンプルに言いましょう。
ペルソナとVTuberの違いとは、そこに「かたち」を与えることができるかどうかにあると私は考えます。
ペルソナは目には見えません。他人にも、そして自分にも。
しかしVTuberは人に見える形で存在します。だからあなたにとってもVTuberはと多かれ少なかれ「別人」であると感じられますし、他人にとっても「別人」であると思えるのです。

あるいは、別人であるという「錯覚」を起こすといってもいいでしょう。
錯覚とは、しかしVRの本質であり、錯覚された現実とはその人にとって実質的な(バーチャルな)事実です。
形なきペルソナにはなし得ず、VTuberが可能にすることが、この「別人感」なのです。

しかし、なぜその「別人であること」にそれほどまでこだわるのか?
その重要性についてお話する前に、ここでもう少しステップを踏むことをお許しください。


◆私たちが気づいていない「一貫性の圧力」

私たちは、実は心理的に大きな圧力を受けながら生きているということに、多くの人が無自覚でいます。
それは「一貫性」という圧力です。

この「一貫性という圧力」を分かりやすくするために、日本の5ch(旧2ch)に相当する匿名掲示板、4chanの創設者クリストファー・プール氏のFacebookを例に出した主張を紹介しましょう。

Facebookは(Facebookだけではないが)、われわれのアイデンティティーが一貫して認証され、さらに、掲載された顔写真と実名を通してオンライン上で示されるという前提を強化している。このことは、われわれの多元的なアイデンティティーを減少させるものであり、アイデンティティーを隆盛させるものではない。アイデンティティーが統合されることにより、われわれの真の姿はゆがめられてしまう。

「アイデンティティ」という重要なキーワードがここで出てきましたが、これについては後ほどもう少し深く説明しましょう。

重要なのは、Facebookという顔写真と実名、つまり現実世界での「あなた」であることを求められる場では、それが一貫していることが求められるということです。
あなたは、Facebookという場で自分が思っていることを何でも書くことができますか?
例えばちょっと偏見を持たれそうな趣味についてであったり、少し過激な政治思想であったり。多分「人の目」を気にしてはばかる人が多いはずです。
少なくともあなたが「普通の人」であろうとする限り、それと矛盾していると他人から見えてしまうような、普通ではない意見の発信はしづらくなるでしょう。

もう一つ、今度は現実世界を例に出してみましょう。
例えばあなたの知り合いがいたとして、その人が会うたびに言うことが変わったり、時には矛盾していたとします。今日は「私はゲームが好きだからeスポーツを応援する」と言ったのに、翌日には「ゲームは体に悪い。あんなものは禁止すべきだ」と、明らかに「一貫していない」ことを言っています。
はたして、あなたはその人を信用することができるでしょうか?


ここから分かるのは、私たちは「一貫していること」を求められていると自分自身でも無意識に理解していて、そしてそれは他人から見たその人の信用にとって重要なものであると考えているということです。
これが「一貫性の圧力」です。自分の内からも外からもかかるこの圧力は、気づかぬうちに大きな力で私たちを縛っています。

しかし、一貫していることを求められない場というのも、実は私たちの身近に存在しています。
それが例えば4chan5ch、そしてTwitter(実名でない場合)といった場、つまり「匿名性」がある場所です。
多分、FacebookよりTwitterの方が自由なことが言える、5chならさらに自由な、あるいは無責任なことも言えると感じる人は、事実、とても多いのではないでしょうか?

それは匿名性が、この一貫性の圧力から私たちを守ってくれると、私たちが無意識に理解しているからなのです。「名無しさん」であることが、「もしかして矛盾したことや、変なことを言っているのかも」という心理的負担を和らげ、私たちに普通ではできない、多様な考え方やその表現を可能にしているのです。

匿名


さて、これを少し別の角度からも見てみましょう。
私が何度も使っている仮想人格という言葉と密接にかかわる「アイデンティティ」という観点からです。

アイデンティティとは心理学の用語で、日本語では「自己同一性」と訳されます。この「同一性」に「一貫性」と同じニュアンスを感じとった方は、おそらく私が何を言いたいのか、薄々お察しではないでしょうか?

平たい言葉でいえば、アイデンティティとは「私はこういう人間であり、それが自分である」という認識です。
ここで私が本項を書くにあたり、重要な着想を頂いた論文を紹介し、その一節を引用しましょう。

【現実の 3 つの側面:オンライン空間とアイデンティティ形成(成田,2012)】
アイデンティティの感覚は「連続性continuity」と「同一性sameness」の感覚からなっており、自分が過去、現在、未来と続く連続性のもとにとらえられていること、また、その自分は自分から見て不変であること、さらに自分自身からだけでなく、他者から見てもその自分が認められているという感覚が得られる状態を指している。(Erikson 1968=1973:167 など)

この論文の主張については後ほどまた触れます。重要なのは、アイデンティティというのは自分自身だけの問題だけでなく、他人からの視点も重要な要素であること。そして「自分から見た自分」と、「他人から見た自分」が一致していることが必要である、ということです。こうしたアイデンティティがはっきりと、一つのまとまったイメージとして確立されて、はじめて人間は安定した人格を持つことができます。
例えば思春期にありがちな精神的な不安定さは、思い悩みながらこうしたアイデンティティを確立する途中であるからだ、というのが一般的なアイデンティティ論です。

思春期

そしてこのアイデンティティこそ、まさに「一貫性の圧力」の本質に関わるものです。
私たちはお互いに、しっかりとしたアイデンティティをもった人間でありたいと思い、他人にはそうあってほしいと望む傾向があります。不安定な人よりも、精神的に安定した人が信頼され、好まれるというのはまさにそうした表れでしょう。

不安定な精神

一貫性の無い人、あるいはアイデンティティが確立できていないと見える人に、人は信頼を置きづらい。そして人間は無意識の内に、そう思われやすい行動を避ける傾向があるのです。

ここでついに、VTuberが「あなたと別人であること」の重要さを理解する準備が整いました。


◆VTuberという「仮想人格」と「匿名性」の重なる先に

私たちは普段から一貫した人間であること=安定したアイデンティティを持つことを、自分からも、他人からも望まれている。それが「一貫性の圧力」です。
であるならば、そこからあなたを守り、自分の様々な考えを表に出すことを可能にしてくれるのが「匿名性」という盾です。

表現の自由さ、アイデンティティの自由さを生む場所に存在する「匿名性(Anonymity)」。これと対になる、「一貫性の圧力」があなたに降りかかる現実空間にある性質を「唯一名性(mono-identifiability)」と、ここでは呼ぶことにします。
「唯一名性」現実世界のあなたが物理的に独立して存在し、他の誰にも変わることはできないという物理的な連続性から生まれているものであり、それが今の世の中では一つの信頼の源となっています。
匿名アカウントよりも実名アカウントが、実名アカウントよりも現実の人間が信頼されやすいことは、この「唯一名性」の表れに他なりません。

信頼

ここでようやくVTuberに話を戻すと、VTuberとはある程度「匿名性」を前提とした存在であることに気づきます。基本的には「中の人」を知らないことがお約束なわけですから。SNSの匿名アカウントに比喩する言葉を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。

しかし一方で、VTuberには名前と顔があり、時には緻密な背景設定をも持ちあわせています。そのためVTuberは、私たちの目には一人の人間、「人格」として見えるのです。
それは拙論「VTuberの本質とその先にあるモノ」でも指摘した通りです。

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つまりVTuberは「匿名性」を持ちながら、「唯一名性」もある程度備えた存在であるということに、皆さんはお気づきでしょうか。

この性質を私は「多名性(multi-personalability)」と呼びたいと思います。
それは、「あなた」「仮想人格であるVTuber」という2つの元は同じ存在が、2つの名前のまま、つまり別人として受け入れてもらえるということを意味します。ゆえに「多名」なのです。私がVTuberが単なるペルソナにとどまらない「別人」であることにこだわったわけは、ここにあります。


そしてこの「多名性」によって、VTuberは「唯一名性」と「匿名性」のどちらの恩恵をも受けられることが可能になるのです。

VTuberは一人の人間として認識され、関係を結び、信頼されることができる。つまり「唯一名性」の恩恵を受けることができる。
一方、そうでありながらVTuberは本来の「あなた」とは別人として、現実の一貫性の圧力を恐れることなく、望むまま自由に振る舞うことができる。

これは、現実世界の人間や実名アカウントにも、匿名アカウントや名無しさんにも、誰にもほとんど不可能だったことです。全ては技術がVTuberに存在としての説得力を与えた、そのエポックが可能にした変化なのです。

唯一名性と匿名性2


正確には、この「唯一名性」は、まだVTuberには十分備わっているとはいえません。少なくとも現実の人間と完全に対等になるほどには。
しかし、例えば前編で紹介したVNOSは、この恩恵をVTuber(彼らの言う「Vの者」)が受けられるよう、社会へ挑戦を続けている先鋒です。

Vの者がVのまま社会参画できる未来、つまり、経済活動を含めたあらゆる活動を制限無く行えることを目指します。
・その様々な役割や特色を持ったギルド(場合によっては既存組織や企業も含む)の協力や連携によって、経済・表現を含めたあらゆる活動がVの者のまま行える状態を生み出し維持すること。それがVギルド構想です。

現時点では、バーチャルな存在、VTuberという人格は、現実の人間と対等な立場ではありません。例えばそれは「ビジネス」という信頼が求められる場では特に明確になります。
しかしバーチャルな存在であっても、現実の人間と同じように「唯一名性」の恩恵、つまり信頼を受け、経済活動が出来るよう、VNOSを始めとして多くの人たちが今まさに夢を見て、努力を続けているのです。そしてa2seeさんが言うように、既にそこには「穴」が開きつつあるように、私には思えます。

またビジネス以外でも、エンターテインメントの世界では(自称)世界初のバーチャルシンガーを名乗り「バーチャルシンガー」という言葉を一躍広めたYuNiさんを始めとしたバーチャル・アーティストもまた、その魅力を原動力にに世間の「バーチャルな存在」への認知を広め、「穴」を押し広げるのに大きな役割を果たしているように思えます。


そしてその穴は、遠くない未来に破孔となり、ついには現実の人間とVTuberの「唯一名性」の壁は消滅することでしょう。
私は中編「VRが変える私たちの社会、2050年のその姿にて、VR技術が近い将来に社会に深く浸透し、やがて当たり前に生活の一部となり、ついには現実がその重みを失うほどにVR世界は現実となんら変わらない場所になると書きました。その変化は必ずや「唯一名性」の壁を吹き飛ばします
バーチャルな存在は、もはや一人の人間としてのあり方と何も変わらない、と、その時世間ははっきりと気づくでしょう。

VTuberという存在は、遠くない未来にビジネスやアートをはじめとした社会全てに関わることのできる社会的に認知された在り方へと進化すると、私は考えます。


◆仮想的アイデンティティという可能性:ありたい姿であれること

でも、そもそもVTuberであろうとする意味って何だろう?
その問いかけに答えようとしたのが前編「私たち全てがVTuberになる日、その未来の姿でした。私はそこでこうお話ししました。

このようにVTuberという仮想人格は、現実世界での制約やしがらみを超えて、もっとも自由にありたい理想の形に変わることのできるもう一人の自分です。様々な技術の連なりが、物理的には存在しない仮想の個人を生み出すことを可能とする。それが実現しつつあるのが、今の時代なのです。
そうして生み出した自分ではない、もう一人の自分で理想の姿に近づいていく。その姿で人と交流し、肯定や称賛を受ける。自分の一部が理想の自己を実現する。それはもはや、まぎれもなく自己実現の一つの形であるとは言えるのではないでしょうか?

「匿名性」を超えたVTuberの「多名性」が可能にする、一人の人間として自分の望むままの在り方でいられる可能性。「多名性」、別人であれること。それは言い方を変えれば別のアイデンティティを持った存在となれることです。
それこそがVTuberであることの意味であり、私たちを魅了してやまない輝きです。


あなたは矛盾した2つの思想をどちらも正しいと思ってもいい。片方をなたが、もう片方を「もう一人のあなた」が肯定してくれるから。
現実の自分の立場や属性とは相容れないことを主張してもいい。「もう一人の自分」は別人なのだから、つまらないポジショントークを守る必要はない。
現実の自分ではできない理想論も、「もう一人の自分」が堂々と口にすればいい。それをバーチャルな自分が実行に移せば、その理想論は本物になる
現実の自分にコンプレックスがあっても、「もう一人の自分」を自由に作り出し、なりたい姿になればいい。それは虚しい一人遊びではなく、その姿で生きる限り、本物の自分の一部になる。

それは匿名性ゆえの無責任とは対極にあります。「もう一人の自分」も形ある一人の人間に他ならないと、あなたそう信じる限り、それはまさに自分の責任なのです。現実と同じく信頼も人間関係も裏切りやその報いも、「もう一人の自分」として背負うものに他なりません。
だからこそ「仮想空間でのお遊び」にとどまらない、責任ある一個人として「新たな自分」となって、あなたは本当の意味で望む姿に変わっていくことができるのです。
現実であろうとバーチャル世界であろうと、それが「自分である」と信じ、行動する限り、それはあなたの心にとって確かな現実なのです。


このような可能性を、本稿を書くにあたって私が多大に影響を受けた論文である現実の 3 つの側面:オンライン空間とアイデンティティ形成(成田,2012)で、ネットの匿名性の中で行われるコミュニケーションを通してアイデンティティを形成することについてこう述べています。

【現実の 3 つの側面:オンライン空間とアイデンティティ形成(成田,2012)】
現実空間ではいかに多元的自己の意識を持っていたとしても、そこに全体像としての統合された人物としての自己を呈示せざるを得ない。多元化した自己にとっては、それぞれが、統合を意識することなく自己意識を持っているわけであるから、とくにアイデンティティが関係する、自己にとって危機的な自己呈示を行う場としては、現実空間は重すぎる可能性がある。これに対して、ヴァーチャル空間は主体を局面ごとに細分して、試行的に呈示することが可能である。
(中略)
エージェントとしての自己は、いわば必要に応じて、アイデンティティを調達することが可能である。
(中略)
統合された自己をイメージさせる「自己実現」とは異なる経路で、いわば自己のパーツとしてアイデンティティが調達可能な空間が形成されつつあるといえる。


…もちろん、安定した精神、一つの「自己」を持とうとする人間の性質のために、本当の意味で「自分」、つまりアイデンティティを複数持つことはできません。
事実、この成田さんも最終的には「自己実現」、つまりアイデンティティはやがて一つに統合されることを前提に、その「パーツ」としてオンライン空間での「望む自分」があると論じていると考えます。


しかし根っこでは繋がっているけれど、ある程度異なったアイデンティティを共存して持つことは、現実的に可能なはずです。そしてそれは限られた人にではなく、多くの人に可能になるだろうと、私は思います。VRをはじめとした技術の進歩がそれを可能にするからです。まさにVTuberが今そうであるように。

繰り返すように、VTuberはただのペルソナとは違い、目に見える形を持ち「別人であるという錯覚」を自分にも他人にも起こします
その源の一つが技術の進歩であり、VR技術やフェイストラッキングなどのアバター総演技術、あるいはボイスチェンジャーといった技術が「別人である」という錯覚を強力に後押しします。
錯覚とはVRの本質であり、その人の中での事実です。それゆえ、この異なるアイデンティティが共存することが可能になる。いうなれば「仮想的アイデンティティ」を持ちうる可能性が生まれる、と私は思います。


事実、私は「思惟かね」という自分自身が、もう一つのアイデンティティを持つ錯覚を感じています。
それはやはり現実世界の「わたし」とは少し似ているけれど、でもはっきりと違う所もあります
その違いには、意識的に作り上げた「理想」の部分もあれば、多くの人との関わってきた中で自然と生まれた部分もあります。
まさにそれは「VTuberの本質とその先にあるモノ」で私が可能性を指摘した「自分ではあるけれど、自分だけではないもう一人の存在が、視聴者との関わりの中でどんどん育ち大きくなっていく」ことに他なりません。

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そして「思惟かね」「わたし」は、物理的には1人の人間が持つ2つのアイデンティティとして、互いに無理なく共存していると、そう私は感じているのです。
それがたとえ、いずれ一つの自己の中に統合されゆく過程での過渡的な存在であったとして、実際に「思惟かね」はここに、私の中にも、読者の皆さんの中にも、確かに存在しているのです。

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それは私というどこにでもいる人間の中で起きたことです。
だから、皆さんの中でも、望めば、信じれば、同じようなことはきっと起きると、そう思います。
あるいは、そうと願えば私は自分の望む新たな形の「自分」を持つことができるかもしれません。思惟かねに次ぐ、第3、第4の「わたし」が生まれ、自分の新しい可能性を切り開いてくれるかもしれない…。

そんな風に考えた時、私はVRがもたらす未来と、人間の発展に、無限の可能性を感じるのです。


◆社会がVTuberという人格を受け入れる日、それが常識になる日

VTuberという、バーチャルなもう一人の自分という存在は、今はまだ限られた世界の中で受け入れられているに過ぎないのは事実です。

それは、私たちの社会が当たり前だと信じてきた「一貫性の圧力」、あるいは現実での「唯一名性」が私たちの常識となっているためです。
ある人は言うでしょう。「何人もの自分をもって、場合によっていうことや考え方を変えるなどというのは不誠実で、人としておかしなことだ」と。

それはとても自然なことだと思います。私たちの社会はそうした常識の中で、何千年もの間、続いてきたのです。だから、私がこうして言葉を尽くしても、それを信じられない人は少なからずいるだろうと、そう思っています。あるいは信じたくても信じられない人も。

そこで、私は一つの証拠を、それは状況証拠に過ぎないけれども、提示したいと思います。

若者の親子・友人関係とアイデンティティ-16~17歳を対象としたアンケート調査の結果から(辻,2004)

この論文の中で辻さんは、下図のような「自我構造の模式図」を提示し、場面によって「自分」を使い分けるような「多元的自我構造」、つまり私の言うようないくつものアイデンティティを持ちうるという考えによく似た概念について言及しています。

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そして論文では、調査時点で16~17歳の387人に対してアンケート調査を行った結果、こうした多元型のアイデンティティを持つ人が全体の35%、1/3にも上ることを示しています。また辻さんは同稿の中でこうも述べています。

多元型のアイデンティティを有する者は、一元型と同水準の自分らしさの感覚をもち、また、自分らしさの一貫主義は一元型よりむしろ高くなっている。この点をみても、多元型は一元型と同様の安定したアイデンティティとみなすことができ、不定型(アイデンティティの未確立)とは区別されるべきものと言えるだろう。
(中略)
(脚注:多元型は)一元型よりも電子的なコミュニケーションに親和的な傾向がみられるが、それが何によるものなのかは、今後の検討に委ねざるをえない。

つまり思春期という過渡期とはいえ、1/3の人間が既に心の中では「何人もの自分」が共存するという経験をしているとも言えます。しかもこれは15年も前の調査での話なのです。
これは1970年代以降の対人関係の変化と、携帯電話などがもたらした現代的なコミュニケーションの形による変化の流れが生み出した、社会的な変化の傾向の文脈にあると、私は読み解いています。

私の提唱する「多名性」を持つ存在、「多名的」な存在は、ペルソナの使い分けに近い考えである「多元的自己」の概念をさらに拡張したものであり、この結果を直接、私の論拠とすることはできません。
けれども、VTuberがペルソナの進化系であるといえるように、「多名的」な在り方はこの「多元的自己」の延長上にあることは間違いありません。

つまり、実は私たちの気付かないところで、かなり前から社会の変化は始まっていたのです。この調査を受けた人たちは今30歳を超え、社会を動かす原動力となっている世代です。そうした人たちの1/3もがVTuberのような「多名的」な在り方に近い経験を、少なくとも思春期にはしていて、場合によっては今もそうであることを考えると、「唯一名性」の社会から「多名性」の社会へと変わる土壌は確実にもう生まれつつあるのです。


◆終わりに:いつか来る「革命の日」そして「全てがVになる」

そして、ついに今その変化が顕在化しようとしていると、私は考えています。
それを後押しするのがまさにVTuberのような「多名的」な在り方の登場であり、近い将来爆発的に世界を変えるVR技術の社会への浸透です。
それはたとえ何千年の歴史を持つ「唯一名性」の常識をも、あっという間に塗り替えていくでしょう。事実、その片鱗が見えつつあることは、既にお話したとおりです。

あるいは、中編で提示した異なる価値観同士の人々が無数のコミュニティはに分散し、島宇宙的になっていく未来の世界では、むしろ「多名的」な在り方が普通になっていくのかもしれません。
なぜならそこでは「唯一名性」の源である現実世界の価値は大きく縮小しており、一方でコミュニティの分散化、つまり多様な価値観があちこちで自由に存在する世界では、むしろ一貫性を持つことのほうが困難だからです。既に現代社会で私たちが、それを感じているように。

またあるいは、もしかしたら今の子どもたち、つまりゆくゆくは「VRネイティブ世代」になるであろう人類は、当たり前のようにそうした時代の中で育ち、適応し、「多名的」な在り方を当然のようにして成長していくかもしれません。
現代社会の変化や、インターネットが私たちの「自分」の育て方を事実として大きく変えているように。

ネットワーク

けれど、もしそんな未来が来ても、私たちは今までの常識だった「一人の自分」と「唯一名性」という価値観と共存していけるし、そうすべきだと思います。
私たちがは「自分を探す」、あるいは「新しい自分になろうとする」過程には決まった方法などありません。今の現実世界で常識だった一人の確かな自分を育てていく方法に、今おそらく世界で一般化しつつある「多元的自己」という在り方、そして次は「VR世界と多名性の中でもう一人の自分を育てる」という選択肢が加わるだけなのです。

あなたは望む限り何にでもなれるし、どう振る舞うこともできる。「自分はこうである」という一つの生き方を貫くことも自由だし、けれど並行して新しい生き方を試すこともできる。心の望むままに「ありたい自分」を育てればいい。

そうした「新しい自分の育て方」が当たり前になった世界では、きっと今よりも彩り豊かな個性がたくさん育ち、多様化し、反発しあいながらも、VR空間という無限の宇宙の中で共存していけると、私は思います。

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私たちの未来には、VRをはじめとした技術に支えられ、今までの人類史の中で最も自由で豊かな「自分」を育てていける可能性と、それが当たり前に受け入れられ共に豊かになっていく社会という、希望に満ちたビジョンが広がっているのではないでしょうか。


…そしてやがて「全てがVになる」。


私の思い描く可能性を語り終えたことにひたすら満足しながら、今日はここで筆を置こうと思います。
前中後編の長きにわたって連載にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


次回以降は、「VTuberという姿での自己実現」には、今現実的にどんな方法があるのか?あるいは、アバターと「あなた」の心理的な関係性といったテーマについても考察していこうと考えています。

この他にも、VRやVTuberに関する考察・分析記事を日々投稿しています。
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また次の記事でお会いしましょう。


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