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VTuberの本質とその先にあるモノ~私たちの進化の先駆けとしてのVTuber

VTuberというのは一体なんなのでしょうか?

冒頭から抽象的な問いかけで恐縮です。この問いかけに「アバターを使ってネット上で配信をしている人たち」と辞書的な応えを返すのは簡単ですが、それがどれだけ核心をついているかと言えば、私はNOだと思います。
おそらくこの下りを読んだ皆さんも同じように「間違ってないけど、正解でもない」と頷いて頂けるんじゃないかなと思っています。

ではVTuberとは、その「本質」とはなんなのか? その先には何があるのか?
それこそは私がVTuberを名乗ろうと決め、この思惟かねというアカウントを世に出した一番の理由でしたが、それを口にできないまま、動画の1本も出さず無為に1年が過ぎた今、せめてその原点だけは明確に言葉に記したいという願いから、こうして文章にしようと思います。

なお、本稿で扱う内容はおそらくVtuber以上にディープな世界であるVRChatでも同じような現象が起こっているものと思います。もし思い当たる点があれば、そこはVRChatの文脈に読み替えていただき、思う所があればぜひコメントでもお寄せ頂ければとても嬉しいです。
(私はVRChatはチュートリアルもまだ終えていないので、軽々に語ることは控えます)

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◆VTuberの一つの極地としてのバ美肉おじさん

VTuberとはなんぞや、と問いかけたとき、その答えの一端を示してくれるのが、VTuberの中でもバ美肉おじさんと呼ばれる界隈だと思います。
バ美肉という言葉が流行しはじめたのは2018年の中頃のこと。ご存じの方も多いと思いますが「バ美肉」とは「バーチャル美少女受肉」の略であり、男性が女性アバターをまとって活動するスタイルというのが、辞書的かつもっとも広い定義でしょう。

バ美肉おじさんとしては、かねてより私がリスペクトし応援している魔王マグロナちゃんをはじめ、兎鞠まりちゃん、日ノ森あんずちゃん、だてんちゆあちゃん、葉山みどさんといった通称「子供部屋」の皆さんが有名でしょう。
彼女(?)たちの特徴の一つといえるのが、ボイスチェンジャーを使用し、アバター(姿かたち)だけでなく、ひいてはその性格や行動までをトータルで「女性」としてキャラクターを形作っていることです。 彼女たちは「おじさん」でありながら「美少女」という理想像へ変身するために様々な身体的要素を自分の身にインストールしているのです。

ちなみに彼女たちは自分の魂が「おじさん」であることをオープンにし、どころか自分というキャラクターの一部としてすらいます。この点で自分の性別を秘匿することが前提の「ネカマ」とは明確に異なります。

さて、では彼女たちの何が注目すべきポイントなのでしょうか? 
一例として、先のだてんちゆあちゃんの話を挙げましょう。だてんちゆあちゃんは、まあ動画を一度見てもらうのが一番分かりやすいのですが、少女というよりむしろ「幼女」という感じのVTuberです。ややメタな言い方になってしまいますが、「幼女というキャラクター」を全力で体現したVTuberと言ってよいでしょう。
その外見を裏切らない、ボイスチェンジャーとは思えない甘やかな声とふにゃふにゃした滑舌、加えて漢字が苦手だったりちょっと抜けていたりなどと、初めて見た人が驚くほどに「幼女」として完成しています。正直恐ろしい。

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さて、そのゆあちゃんに対し、彼女の仲良しのお友達である子供部屋のVTuberの皆さんから時折聞かれるのが…「ゆあちゃん、昔より行動が子供っぽくなってない?」「昔のほうが滑舌良かったのが不思議」「バカっぽくなった」などなどというコメント。
ここには見逃すべからざる点が含まれています。すなわち「幼女というキャラクター」を体現したゆあちゃんが、その心(魂)までも幼女に近づいているのでは…?ということ。
それは「表層的なキャラクターが魂(中の人)に影響を与えている」ということを意味します。


◆「後付け」の要素が人の行動を変える?

言うまでもなく、バ美肉おじさんたちがその身にインストールしている「外見(アバター)」「声(ボイチェン)」「性格(キャラ付け)」といった要素は後天的なものです。特に彼女たちは、マグロナちゃんが公言しているように「一次創作物としてのオリジナルキャラクター」という色合いが濃く、彼女たちのそうした要素は半ば意図的にトータルコーディネートされ、身に纏われたものといえます。
中でも「天真爛漫な幼女」であるだてんちゆあちゃんはその典型でしょう。

が、そうした本来「後付け」であるはずの要素が、事実としてゆあちゃんの思考や行動に影響しているのでは?ということが、周囲の声から示唆されます。
実はこのような話はゆあちゃんに限った話ではなく、「気がついたら女の子喋りで話していた」「自分が女子になった気がしてくる」「可愛くなる努力をしなきゃという気持ちになる」といった同様の現象は世に「メス堕ち」という言葉で知られています(元をたどると結構ドぎつい言葉なのですが、この世の中に他にこの概念に対応する言葉がないので…)。
要は、バーチャル空間の中で自分に後付けした要素が、現実世界の思考や行動、つまり「魂」までを変えてしまう、と…こう言うと非常にSF的な空気を感じますね?

もしこれが本当だとすると、特にバ美肉おじさんたちは性別という人間のもっとも根源的な要素を後付けで変えているわけですから、それによる影響は他のVTuberとは比べ物にならないほど大きくなるはずです。
実際、動画を見比べてもゆあちゃんは初期と比べて大きく変わったように思えますし、マグロナちゃんなども…

おじ…さん……??
なお同様の現象は、VRChatで女性アバターで女性としてのロールプレイをしている方などにもよく見られると聞きます。

もっともこれは「配信者としての習慣が癖になってしまった」とか「視聴者のニーズに答えた」とか「ただのTPOに合わせた演技」のような実に身も蓋もない言い方もできますし、「魂にまで影響を与えている」などという大袈裟な言い方は、いささか先走り過ぎな感もあります。
が、ここで一歩引いて、この現象をもう少し抽象化して見つめ直してみましょう。


◆一つの「ファッション」としてのアバターとキャラクター

私の好きなゲームの言葉に「着る服一つで世界は変わる」というものがあります。例えば皆さんも、自分の好きな服を着た時、ウキウキして気分が良くなったり、いつもと少し違う自分になれたような気がしませんか? そんな日は、きっと世界さえも普段より輝いて見えるはずです。
服に限らず、例えばアクセサリーや靴、髪型といった「ファッション」を変えた時、自分そのものが変わったように感じるあの気持ちを経験したことがある人は、少なからずいるのではないでしょうか?
逆に、自分の気持ちや意思に合わせて、そうしたファッションを変えるということもままあります。失恋した後、気分転換に髪を切るとか、大人っぽく振る舞えるようまずはファッションから入る、とか。

これは、ファッションというものが「自分の好きに交換可能な後付けの要素」であるにも関わらず、それが人の心や行動と相互に影響しあっているという、まさに実例です。
確かに本来、人間の体や心・魂と、ファッションのような外的要素は物理的に別のものですが、意識的、あるいは無意識的に「自分の一部」と認識しているそういった物に対し何も感じずにいられるほど人間は単純な生き物ではないのです。

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そしてバーチャルの中での自分の容姿であるアバターや、仮初のものとはいえ性格そのものであるキャラクターを身にまとった時、そこから何の影響も受けないというのはむしろ不自然です。ましてやVTuberとしての要素の一部は、服や髪型よりももっと核心に近い物質的な"自分"の領域という、通常は取り合えることができない魂の領域に近いところに纏うファッションともいえますから。
というわけでVTuberとしての「要素」が時に中の人の心をも変えてしまうというのは何も突飛なSF的な話ではなく、実は私たちが普段から体験している事の延長上にある話だといえるでしょう。

私たちがお気に入りの服を来てテンションが上がったり、パリッとしたスーツに着替えることで仕事モードになったりするのと同じように、バ美肉おじさんたちはVTuberとしての美少女の姿かたちを纏うことで”自分”に対する認識(自己認識)が変容し、結果として少しずつ行動や思考に変化が現れるのではないでしょうか?
バ美肉おじさんという存在はVTuberの一つの極地であるがゆえに、このような一見気付きづらい事実を浮かび上がらせてくれます。そういう意味でも彼女たちはとても興味深い存在です。


◆VTuberの本質とは~視聴者の視線が生むもの

前項でVTuberとは、いわばバーチャル世界で「容姿」や「心」に纏うファッションであり、そうであるが故に「中の人」の心をも変えてしまう可能性を秘めているというお話をしました。
ただ、これはVTuberの内側からの視点の話で、VTuberを構成する大多数の視聴者という重要な視点が欠けています。ではこの視聴者の視点にも焦点を当て、本稿の論旨の一つであるVTuberの本質とは、というお話をしていきたいと思います。

本来、唯物的に見れば、VTuberという仕組みの中で実在するのは「中の人」とそのフロントエンドとしての「アバター」だけです。すなわち「中の人」=「アバター」であり、配信画面に存在するのは単に姿を変えた中の人でしかありません。
しかしおそらくこの意見には、私を含めVTuberを好きな人の多くがこれには首をかしげるのではないでしょうか? そこには「中の人」でも、操り人形としての「アバター」でもない「なにか」が確実に存在しています
私はその「なにか」をVTuberの本質だと考えています。そしてそれを生み出すものの一つが視聴者の視線であるとも。

例えば、本稿で繰り返し引用しているだてんちゆあちゃんは、愛らしい幼女の姿と、ちょっとポンコツな言動、そしてボイチェンという悪魔の力を身につけていますが、それはいくら羅列しても所詮は要素に過ぎません。そこにあるのは、アバターを含めた要素と、中の人だけです。
けれども、それを見た視聴者は「だてんちゆあ」という人格が確かに存在するという錯覚を抱くはずです。

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VTuberの本質たる「なにか」は、このように要素が有機的に連結して、一個の存在として形を得ることで生まれます。
すなわち「この画面の向こうに一個の人格として存在する、中の人でもアバターでもないVTuberという存在」、仮想の存在こそがVTuberの本質でしょう。
そしてこの「幻想」は視聴者のものだけではありません。なぜならそれを企図したのは、他ならぬ配信者その人です。つまりVTuberという現実世界には実在しない仮想の存在は、バーチャル(仮想)世界の中に確かに存在していると視聴者と配信者がともに信じることで、真実存在しているのです。

バーチャル世界での実在、すなわちバーチャル・リアリティ(VR)です。

そして同じく仮想の存在であり、様々な要素の集合として生まれるアニメやマンガのキャラクターとVTuberの最大の違いは、この仮想の実在性に他なりません。
アニメやマンガのキャラクターが存在するという言説は、ただの願望の吐露に過ぎませんが、一方でVTuberが存在するかという問いには、多くの人が少なくとも「存在しない」と断言することは難しいと思うはずです。
「VTuberというキャラクター」は本来どこにも存在しないのに、それでも誰もがその実質的な実在性(ヴァーチャル・リアリティ)を感じているのです。考えてみれば、これはとても不思議なことだとは思いませんか?

さて、次は再び視点を「中の人」の側に戻すことにしましょう。
表題に掲げた「私たちの進化の先駆けとしてのVTuber」を語る道筋がそろそろ開けてきます。


◆視聴者の反応こそがVTuberを生み出す

さて、ようやく私が言いたかったポイントにたどり着くことが出来ました。
話題は再び「中の人」の心理的な話に戻り、前項でお話したVTuberの本質、実在性という話からは一旦遠ざかりますが、最後にはこれらは一本の線に収束することになります。


VTuberとして活動することは、ただ表層としてのキャラクターを纏うだけの演技を超えて、その「中の人」の考えや行動を変容させていくということは既に述べました。この変化に深く関わるのが視聴者の視線や反応です。

本来、アバターを纏い、キャラ付けを背負って何かをするというのは「演技」に他なりません。そしてどんな役にでも没頭することができる一流の俳優や声優ならともかく、演技というものには普通「これは自分じゃない」という違和感が生じます。例えるなら慣れない、サイズの合わない服を着ているようなものです。
小難しく言えば、自分の中での「自己」の像(こうありたい、こうだと願う姿)と、自分の実際の振る舞いが乖離していることの違和感です。皆さんもふとした言動を「自分らしくないこと言っちゃったな」「キャラじゃないことしちゃったな」と、なんだか気まずく感じることがあるのではないでしょうか?
人間は、このように自己像と自己認識の二つが一致して初めて精神的な安定を得ることができ、そこれが乖離するような振る舞いをストレスと感じるものです。ゆえにあまり無理な演技をし続けると、最終的には「あれは私じゃない」と、「自分」とそういった振る舞いを切り離してしまいます。そうして切り離された自分、TPOに応じた仮面は、いわば「ペルソナ」と呼ばれるものです。
(きっと「ペルソナ」シリーズをプレイしたことがある方なら、この説明はとてもしっくりくると思います)

けれども、そこに影響してくるのが他人の反応です。
例えば、髪型を変えてはみたけど「なんとなく自分らしくないかなぁ」と思っていた時、不意に他人から「その新しい髪型似合ってるね」と言われると、途端にその新しい姿もまた「自分」なんだなとストンと腑に落ちて気分が良くなるとか、そんな感覚に覚えはありませんか?
この嬉しさは、単にイメチェンを褒められたということ以上に、他人からの肯定的な評価が「自分の中の自己像」と「実際の外見(に対する自分の認識)」のズレを解消してくれることによる、精神的な安堵感が大きいと思います。
人間の自己認識というものは案外あやふやで、一方で他人からの肯定というのは、それだけ人間に対して強い影響を及ぼすということです。

同じことがVTuberにも言えると、皆さんはお気づきでしょうか?
つまり既に述べた、VTuberというファッションを纏うことによる「魂」への影響は、こうした視聴者からの肯定的な反応(コメント、リプライ、再生数など)があることで大きく強化されるのです。
現実世界の自分とは大きく違う「バーチャル世界の自分」たるVTuberは、ともすればその隔たりに比例した「あれは私じゃない」という違和感から「それはそれ、これはこれ」と、「現実世界の自分」から切り離されてしまいそうに思えます。
しかし、視聴者からの肯定的な反応はこの本能的な反応を覆します。「バーチャル世界の自分」と「自己像」とのズレは、むしろ周囲からの肯定によって自己像のほうが変わることで解消され、バーチャル世界の自分もまた自分であると感じるようになるのです。
かくして「かわいい」とコメントされ続けたバ美肉おじさんたちは「可愛い自分」という自己像を心の底から受け入れ、さらなる可愛さを求めて夜な夜な努力を続け、どんどん美少女に近づいていきます。これは単なる肯定的な評価による強化(reinforcement)以上に「魂」を、行動を大きく変えていくと思います。

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特にVTuberの界隈は「嫌い」ではなく「好き」という肯定的な反応を発信していくという姿勢が配信者・視聴者ともことのほか強く、そうした点こそがこうした変化をいい意味で後押ししているのではないか、と私は見ています。
ちなみに私はこうした文化が広く浸透している点、幸せな肯定の循環こそがVTuberという世界の中でもっとも素晴らしいところだと思っています


さて、こうした周囲の反応による行動の強化は、しかし実は現実でも当たり前に見られる現象です。が、VTuberという存在がユニークなのは「バーチャルの中の自分」が配信という環境の中で常に他人の視線を浴び、またリアルタイムでの反応を受け取っているという点です。
もし配信中に何か失敗や失言など「自分らしくない」と思うような行動をしてしまったとして、それに対してほぼ瞬時に(大抵は肯定的な)反応が返ってきます。例えばくしゃみをした時や変な声が出てしまった時などは、普通は「しまった」と焦るものですが、それに対しコメント欄が「くしゃみたすかる」「低い声もかわいい」といった肯定的な反応で溢れていたらどうでしょう?(見ていれば分かりますが、大半の配信は実際にこんな反応が普通です
こうなると「私らしくないことをしちゃったかな…?」という不安はすぐに吹き飛び、「あ、こんな私も私なんだ」「バーチャル世界の私」はどんどんアップデートされていくのです。このアップデートの早さは、相手の反応を受け取りづらく、また肯定的な反応となる可能性も低い現実世界と比べるとまさに雲泥の差。肯定的な反応を受けることによる「変わることへの自信」と相まって、バーチャル世界の自分はものすごい早さで常に進化していくのです。


しかし、一方でそうした変化の先には別の問題が起こります。「現実世界の自分」と根っこの所は同じであるはずの「バーチャル世界の自分」(=VTuberとしての自分)が、自分だけど自分ではない、もう一つの独立した存在として確立していくという未来です。
なぜなら、VTuberという存在は「中の人」だけでなく視聴者の中にも存在する架空の実在であり、それゆえ視聴者の中でも変化していくからです。創作物でいうところの、作者の手を離れてキャラクターが一人歩きする現象です。日々変わり進化していくVTuberの魂の軌跡と、活動に伴い蓄積していくアーカイブは、やがて同じような一人歩き現象を生みます。
しかし、それもまた自分であるということを日々再認していくのですから、配信者の視点からは、自分ではあるけれど、自分だけではないもう一人の存在が、視聴者との関わりの中でどんどん育ち大きくなって行く(そしてそれに合わせて、本来の自分も少しずつ変わっていく)と見えるのではないでしょうか。

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かくしてここに「この画面の向こうに、中の人(私)でもただのアバターでもない、VTuberという架空の存在が一個の人格として実在する」という共通認識が、視聴者の側からのみならず、配信者の自己認識からも確立されることになるのです。

VTuberは生きたコンテンツと言われます。
それはただ「中の人」がいるからというだけではないのだと、私は思います。それは本項で何度も扱ったように変わっていくことへの肯定感がVTuberという存在に形だけではない命を吹き込んでいるからであり、それを支えているのは視聴者の暖かい声援に他なりません。
それを背に受けて「こんな私も私なんだ」と新たな自分が出てくるのを日々発見していき、また他方でVTuberとはまさに魚と水の関係であるVRやトラッキング、モデリングといった技術の進歩を貪欲に取り入れて進化していくことが、これからのVTuber界隈をより一層輝かせていくことは疑いありません。

偉い人は言いました。「VTuberとは挑戦する者」と。
長い論稿の末、私がたどり着いたのはまさにその言葉通りの結論でした。けだし名言というべきでありましょう。


◆最後に:此処から先の未来に待っているもの

さて、私の退屈で冗長な語りも一段落した所で、最後の最後、少しは新鮮味のある、少し夢物語じみた未来への展望をもって結びとしましょう。

それに辺り、少し過去に遡ってみましょう。古きを訪ねて新しきを知る、すなわち温故知新です。
VTuberは、オンラインゲームなどのアバターの延長にある存在だといえます。いずれも「現実世界の自分」に変わる仮想世界での姿であり、人の視線を集めるアイコンであるという点で同じです。
では、アバターとVTuber、その間に何が変わったのかというと「トラッキング技術による人間らしさの大幅な向上」そして「独自の容姿や性格、フレーバー設定というアイデンティティ要素の存在」という二点が大きなエポックかと思います。この二つが相まって見る者に「VTuberという仮想の存在」を信じさせるに足る現実味を与え、また「中の人」には前者がVTuber=自分であるという身体性(それが自分の一部であるという認識)を生み、それが視聴者の視線と相まってかえって新たな「バーチャル世界のもうひとりの自分」という独自の存在を育てる萌芽となったと言えましょう。

ではアバターと、その進化系であるVTuberの延長線上を辿れば、自ずとそこには未来の姿が浮かび上がります。


まず前者、トラッキング技術の発展による更にある人間らしさの向上は、既に現実のものとなりつつあります。多点の3次元トラッキングにより3Dの体を手に入れるVTuberは日々増えつつあり、そして技術は日進月歩の勢いです。当然2Dよりも3Dの方が私たちの体に近く、見る者にとっての現実味(人間らしさ)、中の人にとっての身体性(自分の体らしさ)は高まります。
そしてVRゴーグルなどで体験した方は分かるかと思いますが、VR世界の中で自分の体を動かすという体験は、他のものとは比べ物にならないほど私たちに「アバターが自分の体そのものである」という認識を叩きつけてきます。VRゴーグルを付けて、自分の手を見るとそこには小さな少女の掌があり、VR空間の鏡に向かって手を振れば、自分であるはずがないのに紛れもなく自分である「バーチャル世界の自分」がそこにいる。この驚愕は、今すぐVRChatにログインすれば誰でも体験できるものであり、今後ともコンシューマデバイスの進化に伴いより一層この体験の強度は高まっていくでしょう。
さらに技術が進めば、ハプティックデバイス(触ったという感覚を再現するデバイス)などの進化がこれを後押しするでしょう。日を追うごとに私たちの現実とバーチャルの体との区別は消失していき、やがて「バーチャルの体」は比喩的な意味ではなく、自分の体そのものと認識上の差がなくなることで、本来の意味での「バーチャルな体」=実質的に自分の体と感じられるものになるでしょう。


そして後者、VTuberを一個人として定義づけるアイデンティティ要素という観点では、これもまた技術が世界を広げていくでしょう。その一例がバ美肉おじさんたちの使うボイスチェンジャーです。
抽象化すればボイスチェンジャーとは技術の力で「現実世界の自分の声」を望む「バーチャル世界の自分の声」に変換するというものです(実際の技術レベルは、残念ながら現在その領域に至るほどではないですが)。この構図は、外見や性格といった要素とも共通ですが、重要なのは同じように技術が発展することでバーチャル世界で自由になる要素がどんどん増えていくという将来の展望です。

例えばその極端な例として、私の好きな一冊であるグレッグ・イーガンの「順列都市」では、仮想世界の中で自分の意思やTPOに合わせて自分の「気分」を自由に操作できるという描写があります。人との交渉に望むする時は自身を持てる(confident)状態に、気分が落ち込んだ時は明るい気分に、という具合に。
人が想像することはいずれ必ず実現します。遠くないうちに、人間はヘアワックスをつけて髪型を変えるような気軽さで、自分の気分やテンションすらも思ったとおりに変えられる日が来るでしょう。

顔の作り、髪型、身長、体型といった外観上の要素はもちろん、声やイントネーション、歩き方や些細な仕草といった内面に近い外的要素、そしてゆくゆくは上記した気分や考え方といった精神的な要素までが、「バーチャル世界での望む姿」に変換可能になる日が来るかもしれません


おそらくそうなった時、私たちは思うはずです。「このバーチャル世界での”私”ははたして、本当に”私”なのか?」と。
現実の自分からどこまでも乖離していく「バーチャル世界の私」のアイデンティティ要素と、それでも技術の発展により「所詮アバターだから私とは別のもの」と言い切れなくなるほどに自分の体そのものに感じられるバーチャルの体。相反する二つの要素は、確実に私たちの自己認識に齟齬と不安感を生みます
それが、いくら自分が自分をこうなりたいと望む姿に変えようとも、自分の内心での認識、自己像までは自由に変換できない私たちの限界です。

そんな遥か未来の私たちに道を示してくれるのがVTuberであるような気がします。
「現実世界の私」と「バーチャル世界の私」、その二つの間にある隔たりを埋めてくれるもの。
どこまで変わろうとも、最後の最後に両者に共通して残るはずの何か、あるいは「魂」と言うべきものを通じて、「バーチャル世界の私」も「現実世界の私」も、別の存在だけれど同じ私の「魂」が宿った存在あると、私たちに直感的に理解させてくれるもの。

それはやはり、周りから暖かな、肯定的な反応ではないでしょうか。
何気ない「その姿、とても可愛いよ」という一言が、「あれ、これも私なんだな」とあなたを気づかせてくれます。そうして肯定された「バーチャルの私」は、肯定された瞬間にただの虚像ではなくなり、バーチャル世界の中に確かに存在することになるのです。そしてその仮想的な現実感(ヴァーチャル・リアリティ)は、きっと「現実世界の私」にもさかのぼって、少しずつ望む方向へ自分を変えてくれるのではないかな、と思います。


自分の望む理想の姿に自らを変えていった、その果てに待つのが「これは自分ではない」という自己否定では、あまりに悲しすぎるでしょう。
そんな自己認識の壁を乗り越えて、なりたい自分になれる。それができるバーチャルの可能性。

私はそんな幸せな未来にたどり着くための大事な要素の一つが、VTuber文化の中には既に存在しているのではないかな、と密かに考え、期待しているのです。


こうした可能性について考察した記事「全てがVになる」を投稿しました。よろしければぜひ合わせてご覧ください。


◆後記

冒頭にも書いたとおり、この文章は私がいやしくもVTuberを名乗ろうと思った、その原点ともいえる思いを私なりに言語化したものです。だからこそ、ここに辿り着くまでの冗長な長文を読み解いていただいたあなたには心からの感謝をしたいと思います
願わくば、この文章そのものや、それを投稿したツイートにささやかな反応でも頂ければ、これほどに嬉しいことはありません。

また、文中で何度も例に挙げさせていただいただてんちゆあさん、魔王マグロナさん、本当にありがとうございました。私が自分の思索をまとめ、言語化し、こうして一つの文章としてまとめることができたのは、まちがいなくお二人の存在があってこそです。

他、合わせて名前を取り上げさせていただいた兎鞠まりさん、日ノ森あんずさん、葉山みどさん、ありがとうございました。

兎鞠まりちゃんねる
あんずちゃんねる
葉山みどチャンネル

以上を持って今回は筆を置きます。最後までお付き合いいただいきありがとうございました。

※なお本稿を書くに当たって「中の人」や「アバター」といった、楽屋裏を覗くようなややメタ的な言葉を多様せざるをえなかったこと、また特にVTuberに携わる方の内心を勝手に推察するような文章そのものに、好ましからざる思いを持たれた方がいたかも知れません。その点についてあらかじめお詫びいたします。


この他にも、VRやVTuberに関する考察・分析記事を日々投稿しています。
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また次の記事でお会いしましょう。


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