家族と精神障害12 精神障害は甘えという認識から理解に変わった瞬間3つ
こんにちは。
精神障害が甘えていると捉えられてしまうことって意外と多い気がします。
私もそういう風に思っていたことがありました。
そういう風に思ってしまう人の本音って「私も辛いけど我慢してるのに」なんじゃないかなと思います。
その人もその人でお休みが必要なのかもしれません。
そうやって無理を続けていると、本当に心の病気になってしまうリスクが高いと思います。
心の病気の人に「ゆっくり休んで」と素直に思えるのは、その人が精神的に健全だということでもあるのかもしれません。
甘えの認識から理解に変わった瞬間①不登校
姉が小学3年生で不登校になった時、「本当は行こうと思えば行けるのではないか」「学校には行くべきだ」と当時の私は思っていました。
しかし、姉がフリースクールに通うようになって、「こういう生き方もあるのかな」「親もこれで良しとしてるみたいなので、これでも良いのかもしれない」とも思い始めました。そして、姉が最終的に精神障害を発症してしばらくして、「行きたくても本当に行けない状況だったのではないか」と思うようになりました。
ここまで理解が進むのには、本当に時間がかかりました。
今になって思うと引きずってでも学校に連れて行くようなことをしていたら、取り返しのつかないことになっていたのではないかと思います。
家族としてもどう対応したら良いか分からず、探り探りやっているところがありました。理想を言えばあの頃、本人の気持ちにもっと耳を傾けられていたらと思います。
甘えの認識から理解に変わった瞬間②精神障害発症
不登校を経て、姉は19〜20ごろに統合失調感情障害を発症しました。
その頃の私もまだ精神障害と言われてもあまりピンと来ていませんでした。
ずっと家にいて主に寝て過ごしている姉に対して、どちらかというと「怠けている」「本当は働こうと思えば働けるのではないか」という気持ちを持っていました。
この頃の私は世間体を気にしていて、自分の都合で姉に働いて欲しいと願っていたのだと思います。
発症してからの姉は、みるみる精神が不安定になり、毎日精神薬を服用し、ひたすら眠り続けたり、夜中に叫んだり。あっという間に「これはちゃんとした病気だ」という現実を感じる状況になりました。
現在、姉は数年前からずっと働きたいと言っていますが、体調が安定せずなかなか実現には至っていません。そういった姿を見ていると姉の姿勢を応援しつつも、体調が悪いなら無理して働こうとするより治療を優先した方がいいのではないかと思うようになりました。
世間体より姉の体調が普通に心配で、すごく当たり前のことが見えなくなっていたことに気づきました。
甘えの認識から理解に変わった瞬間③買い物依存症
10年ぐらい前から姉が慢性的な買い物依存症になりました。今も月に10〜20万円くらい服とか好きなキャラクターのグッズを買うことをやめることができません。
ここでまた、私は「親が必死に働いたお金を何だと思っているのか」「やめようと思えばやめられるのではないか」と同じように思うようになりました。
買い物依存症については私はずっと厳しい目を持っていましたが、最近やっと「依存症はやめたくてもやめられないそういう病気なのだ」と受け入れるようになってきました。
こういう風に思えて、すごく自分のストレスが減りました。
依存症についての専門書などを読んだりして、依存症というのは専門的な治療が必要で、完治は限りなく難しいと知りました。
特に買い物はアルコールや薬物とはまた違った難しさがあって、生活上完全に断つことができず、「ほどほど」というバランスを取ることが本人にとってすごく難しいそうです。
また、依存症の原因は大抵ストレスで、ストレスの元を突き止めて取り除くことが根本的な対処に繋がることも知りました。
目の前の買い物を止めることに必死で、本人がなぜそういうことをしてしまうのかを深く考えていなかったことに気づきました。
今までは「家には本当にお金がもうない」「このままだと生活がどうなるか」とかそういう説明をすることで本人に買い物を踏みとどまらせようとしていましたが、これは本人の意思でどうにかなるという前提に基づく対応です。
これはただ本人を追い詰めるだけで、事態は一向に良くなりませんでした。
最近は、専門治療と並行しながら「何で買い物がしたくなるんだろうね」と本人に問いかけるようになりました。
治療は少しずつですが、本人との関係性が良くなり、この方向で進むのが時間がかかっても正しいんだろうなと感じています。
甘えという認識から理解に変わったことで、私の気持ちはとても楽になりました。
何でそういうことするんだという怒りや憤りが少しずつ消えていきました。
憤りが根底にあると、姉と話しても議論が平行線でいつまで経っても分かり合えませんでした。
誰かを責めるのは私にとってもしんどいことだったと気づきました。
姉を責めるより、姉と共に考える自分でいる方が楽でした。
そうなってからは、本人とこれからどうしていこうかという話をしても、上手く話が噛み合うようになった気がします。
理解を示すことは話し合いの土台になる基本的な信頼関係を築くのだと思いました。