グリッチ (20)

 俺は憮然として、海を眺めた。再び見ることが叶うとは思いも寄らなかった青い海だ。戦争が始まる前に見たことのある湘南の海と比べても、更に美しい青い海だ。この美しい海に囲まれた何不自由ない島に暮らして、俺は、望みの叶わない人生に不満を抱いている。この海の美しさは、一体何のために、誰のためにあるのだろうか。

 そんなに何もかも知っているなら、俺の家族は生きているのか、死んだのか、教えてくれ。俺は深雪と、いつか本当の恋人同士のように過ごせるようになるのか、教えてくれ。俺たちは、いつか本土を奪還して、また昔のように便利な、飢えることのない生活をできるようになるのか、教えてくれ。

 聞きたいことは、幾らでもあったが、のんぺいに聞いても、まともな答はもらえないのだろうと感じた。のんぺい自身は、いつになったら、義足を誂えてもらい、また二本足で歩けるようになるのか、知りたくないのだろうか。それとも、もう答を知っているのか。のんぺいには足なんか必要ないのか。

 ふと、のんぺいは神の化身のような奴だと思った。世界を造り、この海を造り、この島を造り、俺たちを造り、そして、俺たちを苦しめる蠍も造った上で、俺たちを救わず、問いかけには決して答えない。神というものが、もし居るならば、そして、そいつが口を利くならば、そいつは、のんぺいのような話し方をするかもしれない。

 俺はのんぺいに対して、なぜか無性に腹が立って来た。その時、のんぺいが再び口を開いた。

「話題を変えましょう。今日、話したかったのはですね、僕たちがホモ達と思われて、良かったってことです。竜兄もこれで安全です。これを利用しない手はないんです」

俺はもう、一言も言葉が出て来なかった。のんぺいの思考回路は俺の理解を超えていて、太刀打ちできない。

「つまり、僕がキューピッドになってあげましょう、と言ってるんですよ。姉貴と竜兄が両想いなのに、全然会えないのは可愛そうなので」

俺はぎょっとした。深雪と俺が両想いとは、俺はこの時初めて聞いた。それどころか、俺自身が深雪を想っていることを、まだ誰にも言っていなかった。

「深雪に頼まれたのか」

「違いますよ。姉貴はこんなこと僕に話しません」

「じゃ、どこがどう両想いなんだよ」

「さああ、その辺は、まあ、自分で姉貴に聞いてくださいよ」

ということは、のんぺいはやはり、ただ勘で知っているということだった。のんぺいはこの世で起きていることは何でも知っているのか。背筋が寒くなって来た。こいつは一体何者だ。本当に神の化身なのか。俺が黙っているので、のんぺいはのんびりと先を続けた。

「時々、僕が竜兄に声を掛けて連れ出しますから、そういう時は嫌がらずについて来てくださいね。村の人には男色と思われたっていいじゃありませんか」

つまり、俺と深雪を密会させてやる、と言っているのだった。

「お前、最初に、深雪には手を出すなと言ったよな」

「ああ、それは、まあ、手を出すなという意味が、その、姉貴は…姉貴はですねえ…」

のんぺいはそこで初めて言い淀んだ。言いたいことはわかっていた。手を出すなではなく、子作りするな、と言いたいのだ。妊娠させるような真似さえしなければ、他の何をしてもいいと言っているのだ。でも、のんぺいはさすがにそれを口に出して言うことができないらしい。姉に対して、そのくらいの慎みはあるのか、と少々意外だった。

「言わなくていいよ。わかってる。俺はただ、深雪の友達でいようと思っているだけだ。深雪と子どもの頃みたいに、話したりふざけて笑ったりしたいだけだよ」

のんぺいは意味不明な薄笑いを浮かべ、何も言わなかった。

「なんだよ、その笑いは? 何を考えている?」

と聞いても答えない。深雪と友達でいたいなどというのは、実は嘘っぱちだと知っているのだろうか。本当に不気味で癪に障る奴だ。何を知られているのか、さっぱりわからない。

 ふと、これでは、どれほど孤独な子ども時代を送って来たのだろうかと思った。

「お前も友達とか居ないんだろう。寂しくないのか」

のんぺいは、にっこり笑い、

「僕は大丈夫です。人類皆恋人だから」

と答えた。のんぺいに言われると、冗談なのか本気なのか、はたまた物理学的真実なのか、まったく測りかねる。のんぺいは困惑する俺の顔を見てにやりと笑い、

「じゃ、行きましょうか。明日あたり、大変なゴシップになりますよ、僕たち」

と言った。

 やはり苦もなく片足で立ち上がると、のんぺいは浜の果ての岩場に向かって歩き出した。杖と片足で、滑りやすい岩場をどう歩くのかと思うと、持ってください、と俺に杖を預け、のんぺいは、いきなり両手を岩場に突き、四つ這いならぬ三つ這いになり、するすると岩場を渡った。

 岩の間から陸側に登る獣道の入り口で、のんぺいは立ち上がり、俺から杖を受け取って歩き出した。獣道は島の南西側の陸地を巻き、海から一メートルくらい陸側を縫っていた。初めて通る道だ。左側が海で、下に、狭い西の浜が見え、少し先の山側に、松の大木が見える。こんな巨木が、こんな小さな島に生えるのか、と驚いた。

 木の下に人影が佇んでいた。

「のんぺい」

「姉ちゃん、やあ」

「こんな時間にこんな所に呼び出して、何?」

「連れて来たよ」

のんぺいの数歩後ろを歩いていた俺の姿を認めた途端、深雪は踵を返して走り去りそうになった。

「姉ちゃん、逃げるなよ。逢いたかったくせに」

のんぺいにそう言われ、深雪は踏みとどまったが、振り返ろうとはしなかった。のんぺいは深雪に歩み寄り、

「僕はこの先の林ん中で待ってるからさ。親父に知られると、また面倒なことになるから、小一時間だよ」

と言うと、俺には何も言わずに、獣道を更に先へと歩き去った。

 俺は深雪の後ろ姿に歩み寄り、肩にそっと手を置いた。深雪はびくりと飛び退きながら振り返ったが、跳んで消えることはしなかった。深雪の顔は、やはり可愛かった。絶世の美女ではない。これと言った特徴のないすっきりした顔をしていて、色気はまるきりない。それが急に可愛い顔ということになってしまったのだから、我ながら驚きだ。一体いつまで、この顔を見ながら、ただの友達の振りをし続けられるだろう。この顔を見れば抱き締めたくなり、抱き締めれば、唇を奪いたくなり、唇を奪えば全部奪いたくなるだろう。そういうことになってはいけないというのだから、実に古風な逢い引きだった。

「そんなに怖がらなくてもいいだろ。取って喰いやしないよ」

冗談めかしてそう言ったが、実は、今にも取って喰ってしまいそうなのだから、俺は嘘つきだ。深雪は斜め下を向き、どうしていいかわからないというように、もじもじしている。こんなに覇気のない深雪を見たことは、子どもの頃から無かった。深雪は俺に何を望んでいるのか、さっぱりわからない。

 

 俺は無い知恵を絞った。深雪に嫌な思いをさせるために会うのではない。二人で何か楽しいことをして、おしゃべりをして、遊ばなければならない。それが俺の使命なのだ。こういう予定だと聞いていれば、何か持って来たのに、と悔やまれた。あのロビーにトランプが一組あったような気がした。そう言えば、剣玉が二つくらい、どこかに転がっていなかったか。とにかく、何かをして遊びたかった。

 突然閃いたことがあった。

「深雪、木登りするか」

「はあ?」

と言った深雪の顔がほころんだ。これでいい。俺は深雪を笑わせる係でいいのだ。

 木登りには自信があった。何せ、箱根の山里で二年間、木の上で暮らしたのだから、俺の木登り力はかなり猿に近づいた。のんぺいが待ち合わせ場所に使った松の大木は、登るにはちょうど良い木だった。地上三メートルくらいのところから、大枝が伸びている。

「あそこまで登れるか?」

と言い、俺は幹を登り始めた。三メートルくらい、あっと言う間に登り、目当ての大枝が幹から分かれる部分に腰掛けた。そこからなら、視界を遮るものがなく、左右ほぼ百八十度の展望が広がった。夕陽は本州の陸地に沈むようになってしまうのが惜しいところだが、まあ絶景と言える。

 見下ろすと、深雪はまだ根元の地面に突っ立っていた。

「なんだ、深雪、怖いのか。お前の場合は、滑ったら跳べばいいだけだろ」

「それじゃ、木登りにならないもん」

確かにその通りだった。

「木登りしたことないのか、深雪」

「あるけど、そんな高いところまで登ったことない」

 深雪はどうやら本当に怖がっているらしい。俺は、一旦、下まで下り、深雪に木登りの指導を始めた。木の幹をどう掴んだら良いか、どのように爪先を引っかけたら良いか、岩登りと同じ三点支持の原則など、手取り足取り教えてやった。なまじ、跳ぶという特殊能力があるものだから、深雪はこの日まで、手足で木に登ったことがなかったらしい。しかし、元々、運動神経は良いので、木登りの筋も良く、まもなく、登れるようになった。

「じゃあ、あの枝から夕焼けを眺めよう」

そう言って俺は、先ほどの大枝まで登り、腰掛けた。続いて登って来た深雪の腕を取って助け上げ、深雪を俺の前に座らせた。こうやって大枝に二人で座ると、馬の背に二人乗りしているような按配になった。

「寄っかかるか」

と誘うと、深雪は素直に俺の胸に寄りかかり肩に頭を預けた。俺は深雪を抱き締めたい衝動と闘い、深雪の肩に手を添えるだけで我慢した。自分の身体のどの部分が深雪の身体のどの部分にどのように触れているかということを、意識し続ける自分に、我ながら苦笑した。こんな風に一人の女の周りでときめいて、緊張したことが、かつてあっただろうか。

 夕焼けが群青色の夜空になるまで、二人でずっと海と空を眺めていた。深雪は俺の懐にちんまりと収まり、一言も言わなかった。暗くなってから、

「たっちゃん、ここから降りられるの?こんなに暗いのに」

と不安げに聞いた。

「降りられるに決まってるだろ。深雪、降りられないのか?」

深雪は一度下を見て、

「わたし、自信ないから跳んで降りる」

と言い、次の瞬間には、木の根元に居た。

「ほんと、便利だなあ、超能力」

俺は視覚よりも手先足先の触覚を頼りに、するすると松の幹を降りた。

「でも、木登りには要らねえな。やっぱり、自分の手足で登るから面白いんだよ、木登りは」

負け惜しみではなく本当のことだ。

「もう、帰らなきゃね」

残念そうに深雪が言った。深雪が帰りたくないと思っているということが、俺には嬉しかった。深雪の手を取って引っ張ったら、抱き締めさせてくれるだろうか。唇を許してくれるだろうか。

「姉ちゃん、もうそろそろ、帰る時間だよ」

と、のんぺいの声がした。タイミングの悪い奴だ、と俺は小さく舌打ちした。獣道から姿を現したのんぺいは、全く悪びれず、

「姉ちゃん、先に跳んで戻ってて。僕たちは歩く」

と言った。

 深雪は、一瞬、俺の目をじっと見つめたが、別れも言わず、おやすみも言わず、その場から消えた。その素っ気なさが、深雪らしかった。

「あんなに跳んでばかりいて、大丈夫なのか、深雪は」

と、俺はのんぺいに聞いた。

「荷物が無ければね、結構、好き勝手やってますよ。じゃあ、帰りは山道から帰りましょう。あの岩場は滑ったらお陀仏ですからね」

 獣道を知っているのんぺいが先に立ち、道案内だけでなく、躓きそうな石や木の根の在り処も教えてくれた。のんぺいが居なかったら、俺は道に迷うか、転んで怪我をしていたかもしれない。のんぺいは、人一倍、夜目が利くのか、はたまた第三の目が開眼しているのか、単に歩き慣れているのか。

 俺たちは、山側から、ホテルの裏手に抜けた。五分ほどずらして、別々に裏口から建物に入り、のんぺいは幸村家が使っている二階角の家族用の部屋に、俺は三階の独身寮の部屋に帰ったが、のんぺいが予告した通り、翌日には、俺たちが夕食後に散歩に出、夜まで戻らなかったことは、村中の知るところとなった。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?