グリッチ (3)

深雪の父は、今時珍しく自宅の一部を道場にしている剣の達人で、錬士七段の称号段位を持ち、自宅や市民体育館や警察署で剣道を教える傍ら、古物商を営み、何本もの真剣を自宅に持っていた。だから生き延びたのだ。戦争が始まった時、何よりも必要だったのは、真剣だった。蠍の鉤爪や毒針や吸い針のついた肢を切り落とすのが、最も効率的な戦闘法だからだ。

 蠍は、爪と針を切り落としてしまえば、図体ばかり大きくて攻撃力はない。この戦争は、刃渡りの長い刃物を遣える者が生き残るという、不思議な状況を生んだ。箱根にハイキングに行っていた俺と友達四人が生き延びたのも、やはり、全員が道場仲間で剣を遣えたことに加え、幸運にも真剣を手に入れることができたからだった。

 

 蠍戦争が始まった時、あまりにも非現実的な事態に、俺は、「パラレルワールド」というものに滑り落ちたのかも知れないと、何度か思った。

 そして、深雪が箱根の山中に突然現れた時に、再び別のパラレルワールドに滑って行ったのかも知れないと、今は思う。

 深雪が瞬間移動能力を持っているというのは、驚くべきことだ。とはいえ、三年前からずっと驚き放しで、驚く理由が一つくらい増えても、もう、すぐに慣れるようだ。三年前までの常識はどうせ通用しない。何が普通かわからなくなった世界で、それでもなぜか俺の生涯は続くらしいから、何が何だかわからないまま続けるしかない。

  俺は、しばらく「入院」するのだろうか。医者は出て行ったきりで、誰も何も言いに来なかった。床の中でうとうとし、目が覚めるとぼんやり天井を眺める以外、やることがない。腹が鳴り出した。空腹にはすっかり慣れっこだが、森の中なら食糧を自力で調達できるのに、病室には食べものがなかった。誰かが持って来てくれるのを待つべきなのか、自力で探しに行くべきか、迷っていたところ、戸口をノックして、人が入って来た。

 その顔を見た瞬間、俺は嬉しさと懐かしさのあまり、ベッドを飛び降りていた。不安定な片足立ちになった俺を支えようとして、そいつは走り寄ってきた。

「望月」

「神山」

俺たちは抱き合い、互いの背中を殴り合うようにして再会を喜んだ。二人とも感極まり、しばらく言葉が出なかった。望月の目に涙が滲んでいた。

「また背が伸びたな。というか、なんだか全体的に逞しくなったな」

そう言うと、望月は、俺の怪我を気遣い、座れ座れと促したが、椅子は無いので、結局俺たちは、餓鬼の頃によく一緒にやったように、ベッドに二人で乗って座った。望月は胡座をかき、俺は、左脚を投げ出した片胡座で、ベッドの枠に背を預けた。望月とこういう体勢になったら、コンビニ弁当で酒を喰らいたいところだが、そんなものはもちろん無い。

 望月正範は、俺と同い年で、深雪の父の道場の同輩だった。望月が剣道を始めたのは俺よりも遅く小学校高学年からだったが、中学生で、既に大人並みの体格となり、俺より俄然強くなった。俺はその頃はまだ、小学生並みの体格で、何をどうしても望月に叶わなかった。

 俺たちは常に一緒に練習していた。一緒に時代劇を観て、家の裏の路地でちゃんばらをやり、高校時代に相前後して三段を取り、将来は、京都に出て殺陣のスタントをやると、二人で決めていた。約束通り、二人とも京都の大学に進み、望月の方は碌に大学に行かずに、殺陣のアルバイトを始めた。俺は何の因果か居酒屋のアルバイトの方が先に決まってしまったので、殺陣のアルバイトに応募するタイミングを逃し、半年遅れで望月と同じ会社に入れてもらったが、その直後、望月が大学を中退して故郷に戻らなければならなくなった。お袋さんが大病に罹り、学費が出なくなったのだ。

 小田原に戻ることになった望月との最後の飲み会を、俺の下宿でやった。十九歳にして既に、夢破れた望月は、飲み会でへべれけに酔っ払い、泣いた。今回再開する前に顔を合わせたのは、それが最後だった。

 だが、望月は、小田原に戻り、幸村道場に近いところに居たからこそ、命拾いをしたのに違いない。

 俺は、家族の消息を聞いてもいい相手にやっと出会ったと早合点し、望月に、この村には家族皆で来ているのか、と聞いた。望月は、躊躇うことなく、

「いや、俺以外、全滅だ」

と言った。

「すまん。聞くべきじゃなかった」

俺は、望月に一礼し、お悔やみを言った。

 望月は、手短に家族を亡くした経緯を話してくれた。蠍が発生した時、癌だった母親は、既に自宅で寝たきりになっていた。父親は、食料を探しに出た時に蠍に遭遇して重傷を負い、奇跡的に帰宅したが、直後に事切れた。その頃はまだ犠牲者を荼毘に付す方法があったそうだ。他の多くの死者と共に父を弔った後、望月と弟は食糧と水の調達に奔走しながら、母親も看取り、もう火葬する手段がなく、庭に土葬して家を後にした。幸村道場に身を寄せて間もなく、弟も重傷を負い、道場で看取られ、道場の庭に土葬された。

 望月はこれらのことを淡々と話し終え、

「なに、皆、似たようなものさ。家族全員の死に目に遭えたし、蠍には一人も渡さなかった。幸運だったと思っている」

と締めくくった。

「お前の方は」

「甲府の親類の家に家族で集まっていたんだが、俺は別行動だったからな、消息は全くわからない」

望月はため息をつき、

「そっちの方が辛いかもしれないな」

と言った。二人ともしばらく言葉が無かった。やがて、望月が、

「家族の夢を見るか」

と聞いた。

「いや、一度も」

望月はまた黙り込んだ。

「夢を見ると、どうなんだ」

と聞いても、望月はまだ黙りこくっている。

「いいから、言えよ」

「いや、死者は、時々、夢に出て来て、言葉をかけてくれるからさ。だから、お前の方が辛いかもしれないな、と思った。すまん」

 俺は望月の言ったことの意味をしばらく考えた。確かに、生きているのか死んだのか、知りようもないのは、実にいまいましいことだ。死んだとわかっている方が楽なものなのか、俺にはわからない。でも生きていたら、また会える。

「俺は、きっと生きていると思ってるんだ。だから夢に出て来なくてもいいんだよ」

望月は頷いたが何も言わなかった。

 生きている者が夢に出て来ることも、実はよくある。夢に出るかどうかで生死を判定するなど、あてにならないことは望月も俺もよくわかっていた。俺の家族の消息は、死後にあの世に行くまで、わからないのかもしれない。望月の言った通り、皆、似たようなものだ。家族と生き別れも死に別れもしていない者など、今の世界に一人も居ない。

 「ところで、深雪さんは?」

と望月が聞いた。

「なんだ、お前まで深雪さんて呼ぶのか」

 望月は俺と同年だから、深雪より四年上の兄弟子だ。道場に通っていた頃、俺たちは皆、後輩を苗字で呼び捨てにしていたが、深雪の場合は苗字が師匠と同じなので、それを呼び捨てにするわけにも行かず、下の名前で呼び捨てにしていた。

「それがなあ、この村に住んでいればそのうち、お前も深雪さんと呼ぶようになるよ。深雪様ってのは、本人も嫌がっているが、俺はもう呼び捨てにはできない。特別な人だ。お前にとっても命の恩人だぞ」

「あれは、その、瞬間移動というやつなのか」

「ああ。跳ぶんだよ。覚えてるだろ。昔から、無意識に跳んでたんだよ、きっと」

 望月が言っているのは、六年前の、俺たちが高校三年生の頃のことだった。

深雪は道場主の娘なので、子どもの頃から遊びで竹刀を振り回していたが、本気でやり始めたのは小学校の高学年で、あっという間に強くなり、中学二年で県大会中学生女子の部を制した。

 深雪の強さは、その小柄な瘦身からは説明できるものではなく、謎だった。深雪の動きには、奇妙としか言いようのないすばしこさがあり、決して面も胴も小手も突きも入れられることがなかった。自分は絶対に打たれる事がなく、相手を一度でも打突すれば、必然的に勝ちである。中二の深雪に打ち込める者は、中学生女子ではもう居なかったらしく、試合ではどこに出しても負けなかった。

 練習相手が居なくなってしまったので、幸村道場では高校生女子と対戦させてみたが、やはり、深雪に勝てる者は女子では居なかった。そこでとうとう、段位を持つ俺たちに紛れて練習するようになった。望月か俺が元立ちになり、掛かり手に攻めさせる掛かり稽古や打ち込み稽古の時に、深雪は俺たちが癪に障ると感じるほど、素早い攻撃を入れて来た。

 師匠は自分の娘が強いので鼻高々だったが、実は、深雪にとっては、難しいことになってしまった。そのことがわかったのは、深雪が妙に負け始めたからだ。練習試合や他道場との交流試合で、深雪はいつも、準優勝するようになった。望月と俺は、深雪が勝ちを譲っていると疑った。

 これは望月から後で聞いた話だ。ある日の稽古の後、望月は帰り道に道衣を来た女子が四、五人、野原に群がり、その中心に深雪が居るのを見た。あの強い深雪が、囲まれて小突かれていたので、望月は驚いた。

 この先が望月の賢いところだが、深雪がいじめられていると察した途端、作戦を練り、

「おーい、お前ら、深雪を見なかったか」

と言いながら近づいた。女子達は、いじめの現場を取り繕うために、途端に笑い出し、深雪とも仲良く歩いているような振りをしながら、

「あ、ここに居ますよー」

と言った。そこで望月は、かなり凄みを出し、

「おい、深雪、顔貸せ。話がある」

と、嫌がる深雪の首根っこを掴み、引っ立てた。後に残した女子達は、嬉しそうな意地の悪い笑みを浮かべて見送ったそうだ。

 深雪は望月に襲われるとでも思ったのか、何度か逃げようとしたが、望月は、深雪の道衣の襟首を放さず、女子達の姿がもう見えないところまで来てから、放してやり、

「お前、なんで試合で勝ちを譲るんだよ。いじめられてんのか」

と聞いた。深雪は、驚いた目を上げ、その目をまたすぐ地面に戻し、何も言わなかった。

「俺から師匠にチクってやろうか」

これには、慌てて、

「やめてください」

と言った。いじめっ子達を道場から破門にしても、どうせ同じ中学に通わなければならないのだった。

「そうか、じゃあ、負けるならもう少し、ばれないようにやれ。今のやり方じゃ、ばればれだろ。勝ちを譲ってるなんてことがばれたら、益々いじめられるぞ」

深雪はおろおろし、

「ばれない方法ってどう…」

と言ったから、望月は、毎回、準優勝ではなく、時には初戦敗退したり、準々決勝で負けたり、うまいこと散らせと、ばれない負け方を指導した。

 その後しばらく、深雪は、望月の教えた通り、試合での負け方を散らしていたが、俺たちは、深雪が、もしかしたら、俺たちにさえ勝てるかもしれないほど、すばしこいことを知っていた。

「あいつは読みがいいんだな」

というのが俺たちの間の定説だった。相手の動きを数旬先に読み、身体をかわしたり捻ったりして、避けるのだ。今思えば、あれは読みではなく、予知能力と瞬間移動の組み合わせだったのかもしれない。

 その頃、俺は一度、授業をさぼって遊んだ後、稽古開始時間よりも大分早く道場に着いたことがあった。そこで、扉の陰から、深雪と師匠が、木刀で、一対一の地稽古をしている姿を目撃し、仰天した。師匠とそんな稽古は、俺も望月もやらせてもらったことがなかった。深雪は師匠と互角と言えるほど強くなっていて、師匠の動きを先読みし、必ず攻撃をかわし、隙を見て打ち込んだ。師匠が手加減しているのだろうとも思ったが、最後は深雪が師匠に面を入れ、それを寸止めし、そこで師匠が試合を止めた。

「強くなったな、深雪」

と師匠が言い、

「わたし、もう、剣道やめるから」

と深雪が言った。

 その直後から、深雪はもう道場に出て来なかった。いじめに嫌気が差したのか、師匠にも勝ち、もう目標が無くなったのか、本人に聞いていないから知らないが、深雪の剣道の修行は中学二年の冬で終わった。

 その後、深雪は、望月にほの字になった。望月の話を聞いた時は、俺でさえ、恰好いいことする奴だと感心したくらいだ。深雪が望月にぽっとなっても、おかしくなかった。

 深雪がそういう気持ちになったことをなぜ知っているかと言うと、俺と望月の卒業式の日に、望月を待ち伏せしている深雪を見つけて声を掛けたのが、俺だったからだ。卒業式の後、望月は当時のカノジョとカラオケに行き、深雪は望月に会いそびれた。プレゼントを用意していたのに、渡すこともできず、深雪は泣きそうな顔をして走り去った。深雪が俺に忘れてもらいたがっている、深雪と俺が最後に会った日というのは、実はこれだ。

 

 深雪が待ち伏せしていたことは、後で望月に教えてやったが、望月はカノジョが居たから、深雪には興味がなかった。大体、高校三年生と中学二年生では、歳が離れすぎているというものだ。

「あの頃は平和だったよなあ」

俺と望月は、しばし感慨に耽った。

「で、深雪とお前はその後、どうかなったのか」

望月は大学を中退して湘南に戻り、その後にこの戦争となって三年間、戦闘と避難生活を共にしてきたのだから、深雪と恋仲になったかもしれないと想像したのだ。

「ならねえよ。あれは子どもの頃の深雪さんの片想いだ。今となっては微笑ましい思い出だ。俺は他の人と結婚したんだ」

俺は口をあんぐり開け、望月の顔をまじまじと見つめた。

「早いなあ。誰と。いやあ、早いなあ。いや、おめでとう」

望月は照れ笑いをした。

「早くはないよ。ここでは普通だ。好きになったら、すぐ祝言を挙げるんだ」

俺は吹き出した。

「言葉がやけに古くないか」

「いや、祝言なんだよ。白無垢と紋付袴しか衣装が無い。ここの備品なんだよ。なんかこう安っぽい化繊のさ。ワンサイズで、誰でも同じ衣装を着るんだぞ。お前なんか着たら、つんつるてんだ。俺の時もつんつるてんだった。正子がウェディングドレス着たかったって泣いて、大変だったんだ」

そう聞いて、望月の妻の名前がわかった。

「まさこさんて言うんだ」

「そうなんだよ。なぜか二人とも、正の字が入ってるんだ。今度会わせる」

 望月は左腕に目を落とし、

「お、そろそろ昼飯だ。行こうか」

と言った。俺はその時はじめて、望月が腕時計を使っていることに気が付いた。

「時計、動いてるのか」

腕時計など、電池が切れて、二年以上前から誰も使っていないと思っていた。

「自動巻きだから、半永久的に使える。お前も親衛隊に入ったら必要だから、探してやる。倉庫に一個くらいあるはずだ」

今度は親衛隊というのがわからない。

「ちょっと待ってくれ。頼むから、順々に説明してくれないか。親衛隊てのは何だ」

望月は情報を小出しにしては、俺が困惑するのを楽しんでいるようだった。

「まあ、そう焦るな。じきに話してやる」

(つづく)

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