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失敗者しか信頼しない。

指くわえて遠くのことを見ているだけでは気づけないことがある。だから、眺める側から眺められる側へ、つまり、”やる側”へと立場を変える意味はそこにある。

ちょっと前につぶやいたことで、よく自分自身にも言い聞かせるようにしていることでもあるけど、「うだうだ考えている暇があったら、ちょっとでもやってみろよ」と思うのだ。

はじめるための条件を自分でつけすぎない。大きなものよりも小さなものを、自分(たち)の身近なものをよりよくしていこう、自分(たち)の居場所を心地よくしていこうくらいのノリでいい。

それで文句言うやつがいても気にする必要なんててんでないし、「私なんかが・・・」という無駄な自意識も捨てたほうがいい。じゃないと、はじめられるものもはじめられない。一番最初の一歩の踏み出し方、その”初動”が大事なわけで、勢いをつけてそのまま進んでいくくらいが丁度いい。

さて、ちょっと話が逸れちゃったけど、書き留めておきたいと思っていたのは、なぜ”やる側”ならではの気づきじゃないと学びになりにくいのか、という話。

その言葉を『ラブという薬』の文章のなかで代弁してもらっているような気がした。この本は、精神科医(でありミュージシャンの)星野概念さんと、作家・クリエーターのいとうせいこうさんの対話本である。

実際に、主治医と患者という関係性である二人のカウンセリングでのやり取りをオープンにした内容で、「精神科って、(日本人のイメージと違って)重っ苦しい場所でもないよ」などのメッセージがあって、精神科ってなんだろうを考える一冊になっている。

で、気になったところを一つピックアップしたい。

せいこうさんがカウンセリングを受けるなかで、「自分の思考の癖に気づける」「話を聞いてもらうことで客観的になれる」というニュアンスの発言をしていて、それに対して、星野さんが次のようなこと口にする。

僕から「こうしたほうがいいですよ」みたいなことは、基本的に言わないですね。(中略)あくまで患者さんに気づいてもらったほうがいいんですよ。というか、自分自身で気づいてもらわないと、患者さんのモチベーションが上がらないんですよね。(中略)「ああそっか、こういうふうに考えてみよう」って自分で思いついたほうが、自発的なものになるんでいいんです。そうなるために、僕らも心の仕組みについて学んでいますしね。
(『ラブという薬』20-21pより)

これこそ、「”やる側”にならないとわからないこと」に通じることで、だれかに言われたこと(だれかの行動を眺めての疑似体験)だけでは、自分の糧になる深い気づきまで到達できないということじゃないだろうか。

だれかに言われたことは、頭ではわかるけど、体ではわからない。自分の五感を使ったうえでの気づきじゃないと、人は自発的になりにくいし、そこで浮かんできた言葉は血肉化しないし、成長できない(成長した気分になれるだけ)。

で、”やる側”になって数をこなしたほうがいいのが、失敗だ。自分で考えて(仮説を立てて)やってみる(実証してみる)と、そのプロセスもすべて味わえるので、失敗したときにどこがいけなかったのかを丁寧に学べる。

自分の失敗体験から100%学べるのは自分しかいない。これは個人的な考えだけど、「失敗したことない人ほど信頼できない」もので、失敗しないように慎重になりすぎてる人を見つけたら、早く失敗しちゃえばいいのにとすら思う。

圧倒的な量が、絶対的な質を生む。だからこそ、最初は、小さくはじめるでいい。それがころころと転がって、雪だるま式に大きくなり、一人ではじめたものが他人も巻き込みはじめ、社会との経済的つながりをつくっていくのではないだろうか。https://note.mu/0mija/n/n0407f928c07b

リスクを心配する人もいるだろうけど、その失敗が危機的なものじゃなければいいのだ。「小さくはじめる=小さく失敗する」を繰り返し、思考実験をこなすことで、自分が手を伸ばしたいところへ向かっていければそれでいい。

最近よく思うのは、小さくはじめて失敗したあとにも、一緒に振り返る人がいるといないのとでは、その後の動きが大きく変わるということ。

だから、星野さんみたいな、思考を整理してもらうための「聴く」力と、つかずはなれずで放任する「委ねる」力をもっと学んでいかなくちゃなぁと。

あ、そうそう、子猫たちを眺めると、転けたり、頭ぶつけたり、落ちたり、こいつら失敗ばかりだな、、と彼らの七転び八起きする姿から勇気をもらえるのでおすすめです。

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