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会社は”コント”、個人は”漫才”、という「分人」の再解釈。

「分人」を自分なりのフィットすることばとして考え直してるところです。

「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。

分人主義

20代のときの自分の仕事におけるモヤモヤの原因は、突き詰めていくとシンプルで、ただの「こだわり(と自意識)」であり、必要/不必要なこだわりと如何にして向き合っていくかの線引きだけだったように思います。

それが四苦八苦を積み重ねたのちの30代に入る前には、少しずつ自分なりに消化できるようになり(ある意味、割り切れるようになり)、複業的に働く自分のあり方のバランスが取れるようになってきました。もちろん、未だに調整中なことは多いのですが…。

3年前に自分が語っていたことを振り返ってみると、ここの部分はブレることなく、仕事の調整に向き合えてはいるんだなぁと。

プロジェクトに合わせて、自分の中にある二つの人格を振り分けられるようにもなりました。一人で動きたい「個人格」と、みんなで動きたい「法人(チーム)格」と。

そして、この”分人ワーク”を自分なりにさらに噛み砕いていくと、「TENG」の会社としての活動は「コント」で、「ケケケ」の個人としての活動は「漫才」に近いのかなぁとふと気づいたわけです。

ここで「コント」と「漫才」についての解釈についてですが、コントは「キャラを演じるもの」、漫才は「お題に合わせてキャラのままに語ること」としたいと思います。つまり、「おれはこう思う!」の部分というこだわりのようなものを手放すのがコント、貫くのが漫才というイメージでしょうか。

会社のことは、一人で完結するものでなく、地域のこと、パートナーのこと、さまざまな要因を組み合わせながら、一つの解に向かって、プロジェクトを進めていきます。TENGとしては、主に「教育(プログラム設計・運営)」「広告(クリエイティブ・イベント企画・制作)」が領域となっています。その中で、役柄(役割分担)を確認しながらいいコントをつくれるように動いていくわけです。ここでぼくの役割の多くは、プロデュース(営業・予算調整・ブッキング)と作家みたいな脚本(企画)、演出(編集)になります。現状、ぼく自身が演者にならざる得ないものもありますが、後々には、プロデュースと脚本に徹することができればと考えています。

個人の活動は、基本的には全ての業務を自己完結できるものになります。ケケケとしては、「執筆」「カクテル(出張・ケータリング)」をやっています。ここで力を注ぐのは演者としてのあり方です。どう自分がパフォーマンスしたいかに合わせて、脚本や演出も一人で突き詰めていけるので、よく言えば「(制限なく)自由奔放に」、わるく言えば「言い逃れができない」表現にもなるんじゃないかと思います。ただその分、伝わったときの悦びはものすごい。魂の共鳴のようなものは、ちょっぴり”コント”とは違うんですよね。

さて、「ライスワークとライフワークをどのように区別するか」や「コントの漫才の黄金比はどんなもんか」という話もしたいのですが、長くなるのでとりあえずこの辺で。

とにもかくも、ぼくにとっての「分人」は、ネタを「コント」と「漫才」のどちらでするか、その意識と役割(分担の幅)が大きいということ。その言い回しのほうが、自分の口には馴染みやすい、そんな気がしてます。

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