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パンチラインなどおそらく無くて

帰宅すると、Amazonやらロハコやら、4箱の段ボールが届いていた。ブラックフライデーに乗じて散財した結果が、玄関脇、さみしそうに放置されている。手に取ると「暖」のそれと信じたい「ダン」ボールがひんやりと冷たい。最低気温5度を切るそうで、もうだいぶ冬です。

と、よくよく考えてみりゃあ、鳥取の田舎に住んでるわりには、ポチッたものが早ければ翌日に、遅くても翌々日くらいにはアベレージで届く。そんな時代であり、地方で暮らすときに何を考えるかのベースも変わってきてる最中なのだと実感するわけで。

はい、ということで、昨日から勝手にはじめた「ローカルの周辺あるいは辺境」について記録していく時間になりました。

パンチラインなどおそらく無くて

「ローカルに紐づく何かしら」

そう、ざっくりとしたお題を挙げたわけだけど、だからといって仰々しいことを書くつもりもなく、いや、正確には書けるわけでもない。偉そうに「これはこうである!」と断言したいこともないし、ただただ日々の風景の中で思い浮かんだことをnoteに残しておく、という試みではある。

そもそも、ローカルのあれこれに一つの正解などあるわけがない。ついでに言えば、ローカルに正解があるわけでもない。「どこで、だれが、だれと、どのような背景で、何を使って、どのように進めていくか」なんて、シチュエーションは違うのだから、どっかの成功事例を引っ張ってきて、さもそれが正解のようにトレースするなんてことはできない。

当事者である人たちが、今いる場所で、よりベターにベターになるように、最善の正解を必死こいて手足を動かしながら探すしかないのだろうし。

前置きが長くなったけど、だから自分が記録しておきたいのは、あくまで自分の中にある当たり前のことなんだと思う。「今まさに困ってること」「過去困ってたけどどうにか解決できたこと」「昔も今も変わらず考え続けていること(意味)」など、ローカルに関わるたくさんの人から学んできたスタンダードを自分なりに整理するだけのことだ。そんなわけで、パンチラインとなるような刺激ある言葉などおそらく無い。

ローカルの言葉の周りに転がっているもの、ローカルがあつかう境界が隔ててしまってるものは何なのか、みたいなものがタイトルの由来。いえ、すんません、嘘です、ノリでつけて、意味は後付けでした。ご勘弁。

なぜ油断させないのか?

さて、思うことをつらつらと書き出してみると、ふと言葉とコミュニケーションについての違和感が浮上してきた。

「まちづくり」

この言葉は、人を強張らせる。「何か良いことをしなきゃいけない」「良い発言をしなければいけない」という仮面をかぶせられた状態の人を集めるのは、この「まちづくり」という言葉じゃないだろうか。ざっくばらんにラフに、という気軽さ爽快さというのが見受けにくい。身構えさせるときにはもってこいの言葉になってしまっている。

本当の意味で、”現象的に”巻き込みたいのは、そんな言葉など一つも意識していない人、あるいはむしろ毛嫌いしている人なのにも関わらず、その言葉を意識してる意識ある人だけが「まちづくり」というよくわからない化物に関わっているということが、そもそもカオスじゃないのか。

”結果”そうなればいいことを、”目的化”させてしまい不穏のチームビルディング。ちっともグルーヴは生まれず、ただの義務義務しいグループが生まれるだけってのは、これまで何度も見てきた光景である。ぼくはそういうのには巻き込まれたくないし、巻き込まれるなら古き論法・手法をぶっとばして進みたくなってしまう(だからこれまで失敗も多かったのだけども汗)。

じつはもう一つ違った文脈で相手を強張らせる何かについて書き留めたかったが、タイムイズオーバーなので「なぜ油断させないのか?」はおそらくまだ続きます。

とにもかくにも言いたいのは、言葉ってのは自由なようで人を不自由にさせてしまうときもまあまああり、狭いローカルではその効果を発揮させやすいんじゃないか、ということです。おしまい。

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