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気持ちだけでどうにかなりゃ苦労しねーっつーのだ☆ひろ

「やりたいならやればいいじゃない」

ということばは、正しくもあり間違いでもある。それをじーんと痛感するようになったのは、ここ数年のことで、むかしは乱暴にぬけぬけとそんなことばを言い放っていた。ほんとイヤな奴だったと思う。あの頃のまわりにいた人々に、土下寝したいくらいの気持ちだ。

やりたいならやればいい、というのは確かにそうで、やりたいという気持ちがあるならやってみればいいし、そうしないとわからないこと多いよ、というスモールスタートの精神がそこにはある。

だけど、その「やりたいならやればいい」を、その人の意思にだけ押し付けしてしまうニュアンスになっていたとしたら、間違いだ。

「やりたいのに、やれてない」

そのときの理由を、意思がないから、強くないから、というように個人の戦闘力に帰してしまうのは、相手の扱い方がぞんざいすぎやしないか。さらに追い打ちをかけるように、「それは本当にやりたいことじゃないからだよ」というロジックをぶつけるのはなおさらだ。

相手を落ち込ませることに拍車をかけたとて、いい方向に進みにくいのはいい大人はみんな勘づいている。

気持ちはあるけど現実問題として「やれてない」のには、個人主義だけで太刀打ちできない壁があるからで、それは”環境を整える”ことで一個人の力を包括して、ええいと壁を乗り越えられる”やりやすさ”をつくろうとするほうが人にやさしい。

そもそも、自分一人だけでできちゃう人はすでにやってのけてるわけで、問題は、「やりたいと思うことを少しずつでもかたちにしていきたいのだけど、べらんぼうに強靭な精神は持ちあわせていない人のほうがメジャーなことだ。

だからこそ、”人をアップデートする”よりも、人が不思議と変われてるように”環境をアップデートする”ほうに目を向けてみたくもなる。

仕事でパフォーマンスが上がらない部下に対して、上司が「気持ちが足らん!」と精神路運だけで一喝するのはへんな話で、パフォーマンスが上がりやすい関係性やら部下が働きやすい職場とは何かを見直すほうが理にも適ってる。

この”ちょっと ”がわりと大事なのかもしれない。だからこそ、”なだらかなスロープ”が必要なのだ。
だからこそ自分ではなく、環境を変えてみる(あるいは、若林のように環境をいじってくれる人をみつける)。変えようとする対象を変えてみる。

以前書いてたことは、この話にめちゃくちゃつながっている。

やりたいと思ったときに、「やり方がよくわからない」「一人ではじめるのはこわい/はずかしい」というのは、深層心理にもありえる話だろう。

まあだからこそ、一人でできるようになろうと躍起になってがんばり方を間違えるよりかは、だれかを巻き込みながら/だれかに巻き込まれながら、みんなでやってみりゃいいわけで、そういう環境設計を心がけてみればいい。

そこで経験値をつめば、一人ではじめることへの抵抗もだいぶなくなる。

やれてない自分も、やれてない他人も責めすぎず、その人が引力にぐいーーっと引っ張られるかのごとく、あれよあれよと物事を動かせるようになる環境ってなんだろうね、とみんなの目が向くようになれば、もっともっと居心地のよい社会が生まれるんだろうなぁ。

そんなことを考えたら眠くなってきたので寝ます。懺悔しながらの土下寝です。おやすみなさい。

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