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やる気依存症

物事にやる気など必要ない。

いや、まぁそれだけだとやや乱暴すぎちゃうので言葉を添えると、やる気はあるに越したことはないけど、あってもなくてもどちらでもよくて、動かしたいことが動かせるのであればモーマンタイというニュアンス。

やる気に依存して生活すると、やる気がないこと自体を責める、というくだらないワンクッションが挟み込まれ、そもそもの動きが鈍ってしまう。であれば、やる気そのものから焦点をズラし、「もともとやる気を出して動かしたかったこと」に目を向けてみる。そいつを動かすには、何が必要なのか。

ぼくの場合、恥ずかしい話、根本的には「(仕事と思う)仕事をしたくない」わけで、そのマインドの中でも仕事を動かしていくためにどんな環境(作業のベルトコンベア)をつくればいいかを考えることが多い。これまでの失敗を中心とした経験から、「自分が動けず立ち止まるときには、どうやら“運動”や“巻き込み”がないこと」に気づく。

“運動”というのは、頭だけでウダウダ考えがちになり、手や足を動かし、「動きながら考える」という思考と身体の連動のこと。具体的には、心が無のとき・アイデアが浮かばないとき・気持ちが上がらないときは、とにかく「白紙を汚すように頭の中に溜まってるゴミを書き出す」あるいは「移動して、めに映る風景を変える(その視界から思考を広げる)」に行動をシフトする。

“巻き込み”というのは、至極簡単なことで、一人で向き合ってて進まないんだったら「だれかを巻き込んじゃう」、あるいは「既に動いてるものに巻き込まれちゃう」ことを選ぶようにする。人を巻き込むことの責任感、ゆるやかな強制力をまとうことで動かせるものはいくらでもあるはずだ。

人間は、なまけもので、ポンコツ。ぼくは基本的にはこういう理解なんだけど、「頭だけで考え、一人で取り組んでいく」みたいな精神性(理想像)を、社会全体で求めすぎなんじゃないのかなあ、と感じることは多い。やる気が物事に没頭させるのはいいけど、やる気に依存させて物事に真摯に向かっていきたい人の精神を削ぎ取るのは何かズレている。

「おめぇ、やる気あんのかよ!」

そんな一方向の雑な一言で片付けちゃうと、繊細でしなやかに考えてる人の意味のある表現を押し殺してしまう。そんな気がするのです。大将、冷やし中華が食べたいです。

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