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"best English"より"best thinking"を貫いた、教育者としての小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)

 鳥取境港の水木しげる記念館から車で40分ちょっと行けば、島根松江の松江城があり、そのすぐそばに、小泉八雲記念館がある。

 アイルランド人とギリシャ人の親を持ち、イギリス、アメリカなどの国を経て、日本へやってきた小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)。元記者で、松江の尋常中学校に赴任し、英語教師に。妻・小泉セツとの結婚をして、日本に帰化。その著は多く、代表作に『怪談』などが挙げられる。

 民俗関連での興味から足を運んだことがあったが、小泉八雲記念館をうろうろすると、その半生や創作態度、妖怪観もさることながら、彼の教育観に関心がわいた。

 日本では十数年に渡り、地方の中学校、東京帝国大学や早稲田大学においても教鞭をとっていた小泉八雲。生徒たちに英作文を書かせるなか、次のようなことを大事にしていたという。

 ”best English(最良の英語)”よりも”best thinking(最良の思索)を。

  「耳なし芳一」「ろくろ首」「むじな(のっぺらぼう)」「雪女」など日本各地の民話・伝承を、英語圏の人にも受け入れてもらえるかたちで”再話”した文学作品『怪談』。

 これをはじめとする小泉八雲のほとんどの著は、(日本語が読めない)セツから口頭で伝え聞いたことを、八雲がスケッチなどで記録し、文章として編んでいくスタイルでつくられてきた。つまり、彼の想像力のかぎりを尽くして書かれた作品なのである。

 八雲が松江で英語教師として赴任したのは1890年(40才)のときだったが、学校で目の当たりにした詰め込み型の教育を危惧した。想像力を養うどころか、思考を奪うような教育ではダメだと思い、生徒たちにも”best thinking"を意識させていたのだろう。

 また翌年、松江から熊本へ転任し、そこで教鞭をとっていたときに友人に送った手紙の中にこんな文句が記されていた。

 ゴーストもエンジェルもデーモンも今はいません。この世の中は電気と蒸気と数字の世界になってしまいました。それは味気なく、空しいことです。

  出雲大社がほどなく近く信仰心が残る松江と違って、日本古来の精神よりも西洋思想をもとに列強に追いつき追い越せの軍備強化を進めていた熊本にとおいて、「世論に支配されて自分の意見や独創的な説を発表できず、自発的に問題提起する能力もない」と、小泉八雲の憤慨の念が込められたものである。

 ニューヨークで日本の『古事記』に魅了され、わざわざ遠路はるばるやってきた日本で、自分たちが持つ高尚な精神文化を否定し、またそれが「想像力」や「思索」を深めるために必要だと感じていた八雲からすれば当然の反応だったのかもしれない。

 ちなみに、八雲の妖怪観として、次のようなものを見つけた。

 妖怪たちは、(中略)「共生」と「環境」について考える機会を与えてくれる。

  熊本滞在時には、外人嫌いをはっきりと口にする程、外人排斥の気運があったらしいが、日本における外国人としての苦渋をなめてきたからこそ「共生」という言葉があったのではないかと思う。

 と、作家ではなく、教育者としての小泉八雲について振り返ってみた。

 そして、その教育観の根っこには、日本の信仰(精神)文化への敬意と、ジャーナリストとして(クレオールなどの)さまざまな民俗文化に触れてきたという経験があったのだった。

 そうそう、全然関係ないけど、彼の著書(『怪談』や『知られざる日本の面影』など)の装丁がばちぼこカッコよかったのよね。それと、時代は違えど、16歳で左目を失った小泉八雲と、22歳で左腕を失った水木しげる、二人の妖怪スターには妙な共通点があるもんだと感じたんだったっけ。

 何かを失うことで、見えてくる何か。少なくとも、その二人の目には、妖怪が、ちゃ~んと映っていたわけで。

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