情けなさも、転がしながら、おもしろがる
自分を信じるとなんなのか。
一口に「自分」といっても、自分の言葉を信じるのか、自分の行動を信じるのか、自分の直感を信じるのか、細かく分ければいろんな方向性がある。
ふとそんなことを考えたのは、アニメ『天元突破グレンラガン』を見返していたせいに違いない。地下で穴ばかり掘っていた、主人公シモンは、とにかく自身がない。いつも弱気で、自己肯定感がめちゃくちゃ低いところから物語が始まる。
そんなシモンに対して、一緒に地上への旅へ繰り出す兄貴分のカミナはいつも彼を励ますような言葉を投げつける。
この言葉をくらって、「刺さったわぁ〜」と感じた視聴者は少なくない。この作品の名言セレクト集に入るような台詞である。
言葉の遍歴をみればわかるが、少しずつ、信じるものの対象が変化していく。たとえ自信がないとしても、「お前を信じている”俺”を信じろ」、と他人の評価から始めるんだ、と。そのリハビリを終えたのちに、「他人」の信じるよりも「自分」の信じるを信じろ、と自己肯定の強度が上がっていく。
今、ぼくが「自分を信じる」という言葉を耳にしたとき、フッと頭に浮かぶのは「自分の"つくったもの"を信じられるかどうか」という問いである。ここで毎日のようにつけている日記も、学校で少しずつ仕上げているネタも、お店で出すカクテルも、すべて自分がつくったものになる。
正直、「信じる」という言葉はぼくにとって強すぎるから、跳ね除けたい気持ちがある。だから、信じるよりは「おもしろがる」という言葉に変えてみる。自分のつくったものを、おもしろがれているのか。ここが一番大事なところ。
すぐ弱気になって、「どうせぼくなんか」という言葉の波が押し寄せてくることも多いけど、それを吹き飛ばすくらいの風を送りたい。そうやって、自分をおもしろがりたいんだよなぁ。
自分を蔑みがちな情けなさも含めて、おもしろがっていきたい。自分をおもしろいと思う気持ちを雪だるま式に転がしてちょっとずつ大きくしていく。……ってのが、最近の内なる闘いだったりするわけです。
まあ、なるようにしかならんけど、 どうにかなるようにしよう。大丈夫、ダイジョーブ。
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