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傍楽と畑楽 - ふたつの"はたらく”

3連休が終え、宿泊していたゲストも見送り、ふぅぅぅぅっと一息ついている。縁側から外を眺めれば、日照りと木陰がいいバランスであって、そこに風鈴の音がときおり聞こえてくるもんだから、”夏休み感”がすごい。

いうほどはたらいてもいないくせに、夏休み感をひたすら味わっていて、なんだか不思議な気分だ。そのうち、敷地内を使って、(まずは)宿と飲食店をはじめるんだけど、”休んでいるようにはたらく”ような感じだろうし、やっとその環境を手に入れられるのかと思うと楽しみでしかたがない。

基本は家にいるわけだから、来客のために家の事をやることが商いをやることになる。ざっくりいえば、「家事が仕事」という状況になるのはいい。家事は好きだし、手を動かしながら考え事できるし、働いている感覚がないし。なにより、自分が住んでいる家でもあるので、結局そこに還元される。

むしろ、来客があるから、がんばって掃除しよう、庭を整えよう、とか強制力が出てくるので、「やりはじめたら家事は好きだけど、それまではなまけもの」という自分にとって、他人を家に迎えることは大きな意味がある。

フリーランスとして活動する前からずっと、「はたらくとは」ということを考えてきた。で、やっぱり思うことは、「他者のために、ではなく、自分のためにやるのがいい」ということだ。

孫さんが、ちょっと前に、こういう記事を書いていた。

江戸時代には、「傍を楽にする」のが「はたらくこと」とされてたときがあったそうだ。傍(自分の回り)の役に立てるように仕事をする、ようは、だれかのために仕事がある、という考え方。

そう、最初の話に戻せば、ぼくはこっちの考え方はあまり合っていない。なので、他の「はたらく」を採用することにした。数年前、小豆島に住んでいたときがあって、隣の豊島で長らく続いてる「豊島農民福音学校」の記録の整理を手伝ったことがあった。

卒業文集があって、この学校の生徒たちの感想がずらっと並んでいたんだけど、ひと際引き付けられる文章があった。

はたらくとは、畑を楽にすること

そこには、そう記してあったのだ。「はた=畑」。自分の耕す"畑"を、土地と自然現象に従い、時には対抗し、作物がうまく育つように、知恵を絞って"楽"な環境を整えていくことが、ここでいう「はたらく」ということ。

”畑”とは自分たちの暮らしをよくしていくために必要なもので、その土壌を耕していけばいくほど、どんどんよりよいものになっていく。

つまり、傍楽は「他者のために」はたらくんだけど、畑楽は「自分(たち)のために」はたらくという考え方のようだ。で、どうせはたらくならぼくは自分のためにはたらきたい。

もちろん、「自分たちさえよければそれでいい」というわけでもなく、ちゃんと商いをやっていれば、結果(自然と)、それは他者への還元になっていくので、”適切な自己中心性”を持ってはたらくつもり。

よくよく考えてみれば、これまでの取材を通して出会った人たちは、自分たちの暮らしをよりよくするために、働き方を整え、仕事を生み出していた(しかも”意図せず”社会的に認められちゃった)人が多かった。実際にそれをやってる人たちがいるんだから、やれないことはない。

自分をゆたかにするためにはたらく。

ぼくはこれでやってくつもりだし、「な〇」はそういう考え方の人たちが集まる場になっていけばいいよなぁ。そういや、野球漫画「MAJOR」を読んでて、佐藤寿也は「傍楽」タイプで、眉村健は「畑楽」タイプだよなぁとか思ったんだったっけ。

どっちの"はたらく"でも、自分にぴったし合うはたらくが見つかればそれでいいんだよきっと。さて、みんなはどっちがいいんだろう。

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