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透明な自意識で

僕は透明人間さ 

 体だけでなく心を透明にできればつい見えすぎるものを遮断できる。

 ときどき、ふと、息苦しさを感じる。今、目を開け、息をして、椅子に座っている、ただそれだけなのに、詰まりを感じる。何かをやらなければいけないはずなのに、無気力でやる気にもなれず、でもやっぱり”やらねば”に苛まれ、立ち止まってる胴と頭をメタで見てる自分にも飽き飽きしながら、早く時間よ過ぎてくれよと願いながらも、一秒一秒が過ぎてゆくその瞬間瞬間に感じられる息苦しさ。

 すべてのことには原因と結果があり、その結果を引き起こさないための原因をつぶす処方箋があるのなら、どんな劇薬だって呑んでしまおうとは思うものの、何をこの身に与えていいのかすらわからない。そもそも自分で処方するものでもないのかもしれないし、そうだとして、誰に処方してもらえばいいのかも皆目見当がつかない。

 治すものでもない、のかもね。この息苦しさは、自分を観察しすぎているせいで生じてるもので、他のところに意識がいくようになれば気にならなくなるのではないか。ああ、たぶん、昔からそう勘づいてはいたんだろう。だから、没頭できるものを、と「どうにもならない自分」から目を逸らせるものを探していた。

 結局は、自意識のせいでしかなく、こいつとの折り合いさえつけば、息苦しさはただの呼吸でしなく、不安がつのる時間の経過もいつがおやつの時間かを知らせる指標でしかない。事実は変わらないが、目線をズラせば、感じ方は変わる。そもそも問題ではないことを、その視点・角度のせいで問題視していただけじゃないかとさえ思う。

 おそらく、それが”自意識過剰”ってやつだ。もちろん、一人ひとりの内世界からすれば、だれもが人生の主人公なんだろうけど、みなが共に生きる社会においては、自分の存在を悲劇のヒロインみたくドラマチックに置くことはできない。相手のその内なる物語に目を向けることも、円滑なコミュニケーションにおいては重要なのはわかるけど、目を向けすぎることで生まれる不穏もある。

 相手の立場に立たないことで見えてくる関係性があるように、自分の立場(そこで沸き起こる感情とか思考)に繊細になりすぎず、図太く鈍感にずけずけとゆくってのも一つの処世術なんだろうし、そこに踏み込んでいくトライアンドエラーというか勇気みたいなものが必要みたい。

 自分をいろんな角度から、あるいは拡大縮小して視てみること、また時には自分が透明人間かようにその自意識を無視してみることも大事ってことで。自由自在に視界を切り替えられるメガネがほしいですな。

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