NO MORE 学び泥棒
学びは、だれが奪っていくのか。
受け身で誰かがやってくれるのを待っていればどうにかなる、という思想は、どの時期に刷り込まれ、どの時期にそこから抜け出せるのだろう。もしかしたら、抜け出せないことだってあるかもしれない。
今年になって、探求プロジェクトを通じた小〜大学生とのコミュニケーションが増えるなか、ふと学校教育について考えることが多い。先日もとある大学生たちと話をしてて感じたことがある。
また、そもそもの学びに対する姿勢についても、前提を改めないといけない(注意を払わなくちゃいけない)のだなぁと思ったことすら。
そう、何かの学びを得るときに、「教える」「教わる」関係があるのがあたりまえ、という価値観がわりと蔓延っているのは、見逃しちゃいけない。「教えてくれる人がいないからどうしたらいいかわかりません」という受け身でそのチャンスをことごとく棒に振っているように見えてしまう。
言うなれば、「独学」ができない。ふとした瞬間に何か疑問を見つけたときに、自分で調べて、対象にアプローチし、掘り下げていくスキルが乏しい。雑感としては、偏差値が高い学校の学生ほど、その傾向があるようにも思う(学問でなく“勉強”は得意なのだろうが)。
ここでふと思い出すのが、「まなぶ」の語源について。まなぶは「まねる」から変化したという説がある。
もし学びたいことがあるのなら、真似から入ればいいわけだ。つまり同じようなことをしている人を見つけて、五感をフル回転させながら、観察して模倣してそれを繰り返せばいいだけのこと。しかし、独学ができない子たちは、頭だけで考えて「何をすればいいかわからない」という判断になりがちだ。
おそらく、これは慣習とトレーニングの問題しかない。独学はあくまでスキルであり、才能ではないのだから。
“学び方”から自分で考える練習をしてきたかどうか。少なくともぼくの時代-地域-知るかぎりでは、学び方までは学校で教えてくれなくて、その学び方で勉強ができない子は「ダメ」という烙印を押されまくるシステムだった。
(勉強においてはぼくは辛うじてダメまではいかなかったけど学校生活・人間関係についてはダメで不登校期があり、一人で過ごす時期が増え独学せざる得なかった。また、もし自営・フリーランスという働き方を選ぶのであれば、独学スキルないとすぐに詰む。つねに学び続けなきゃ回っていかない)
慣習やトレーニングの問題だとすれば、もはやこれは大人であろうが、積み重ねてこなかった人はやはりできないし、逆に小学生からでもちゃんと訓練をしていけば積み重なっていくものだろう。今、「作文」プログラムづくりを進めているがそれも「自分で問いを見つけ、自分に合うやり方を見つけていく」ための選択肢の一つになればいい。
何はともあれば、「スロープづくり」が自分がめざす学びのかたちではあるので、焦らず、階段をつくりすぎずに、関わる学生たちといっしょに学びを深めていきたい。
「NO MORE 学び泥棒」。学びが奪われるのも自分だが、学びを奪っていく(環境に身においてしまう)のも自分なのだ。さて、変容のための変化はどこから手をつけるといいのだろう。
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