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なだらかに、なだらかに。

「スロープをつくる」

ここ1~2年のなかで、わりと考えてきた、ちょっとしたテーマだ。

なにか目標があって、なにかをはじめたいとき、その目標が高すぎると、地に足が着いてなかったりして、何をするかも曖昧になって手がつけられなくて、結局なにもはじめられない。

...というのは、自分自身を振り返ってみて、痛感してきたことでもある。

だから、痛みから学び、その目標には、段差をつけて、具体的な小さな目標を積み重ねながら、自分をほめながら上に登っていくやり方がいいなぁと、”小刻みな階段づくり”を意識するようなった。

いきなりジャンプするのでなく、ホップとステップを入れる、あるいは、難問にぶつかった人に対してギリっギリのヒントを与える、そんなあんばいだ。

しかし、そこからさらに時間が経過していくなか、自分や他人のいろんな「はじめる」に向き合うようになってから感じたのは、そもそも段差を感じてちゃいけないんじゃないかってこと。

なんとなく好きだからとか、仕事や習慣などで当たり前のように続いていることは、気がついてみたら、いつの間にか造詣深くなっていたり、技術が身についちゃっているときがある。

バーテンダーとしてのしごとは、聴くこと、場をあたためること、を自然と身につけさせてくれていて、それがライターのしごとに生きたりした。だから、妙に、段差を感じることなく入っていけたのだと思う。そういうことは、じつは、振り返れば自分のなかに意外とあったりする。

なだらかに、したいのだ。

ちょうど去年の今頃だっただろうか、北千住駅の構内を乗り換えで歩いていたときのこと。通路を進むと見えたものは、階段。そして、その隣に見えたのはスロープだった。

ケガ人や子ども、お年寄りにはやさしい。同じ高さのところに進んでいくのに、その傾斜の感じ方、動くときの負担は、不思議なことにちょっと違う。

じつのところ、この”ちょっと ”がわりと大事なのかもしれない。だからこそ、”なだらかなスロープ”が必要なのだ。

自分でいうのもおかしいけど、あまり器用なほうではなく、なんというか、ものごとの目標を決めてガっと進んでいくことが激烈苦手で、妙なところで逃げ腰になったり、つまりは、へたれで、自分で決めたはずなのに、、と自分に嫌気が差すことも残念ながら多い。

そこで、まずは考え方を変えてみた。

学び方は、人それぞれというように、登り方もきっと人それぞれ、合うもの合わないとのがきっとある。

意識高いというか、忍耐強いというか、マッチョというか、そういうやり方では登れないから、そうじゃないスロープをつくることを大切しようと心に決めた。そっから、「多様性」という言葉もひょいと顔を出すわけだ。

“そうじゃない選択肢”を探してみよう。

苦痛にならないレベルで試してみる、続けてみる、、いや、続けられるものを選ぶ。そこから自分がやろうとしてることの世界をのぞき込んでみる。

家の玄関のような、一番最初のところ。そんな場所が必要なのかなぁ、あったらいいよなぁ、とつねづね思っていた。

水上家というたまり場、バザール千駄木という小さな商店街、小商いについてのインタビュー/レポート、自身の小商いの実証実験移動型のバーテンダーしごと、、、

さまざまな場面の振り返りや、いろいろな関係性、いろいろな経緯のなかで、アキナイイエなどの今後つくっていく拠点はそういう場所にしていきたい。

「そーそー、こういう場所がほしかったんだよねぇ」

自分も他人もそう思える場所で、”お店をはじめる”のスロープをつくれるような場所。

なんとなく構想固まってきた気がするから、だれかに話して、アイデアをより具体的に少しずつこねりくり回してやろうかしら。

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