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神社費に宗派は関係あるのか?

 ぼくが寝床にしてる鳥取県大山町の名和地区、さらにその中の30世帯未満の集落では、年に2回だけ寄り合いがある。年始の「初常会」と年末の「最終常会」の2回で、そこは区費の使い方や、次の役員選定、その他情報共有が行われ、珍しく集落の顔が揃う場でもある。

 もう2年(つまり4回の常会)に出てはいて、毎度のように出てくる議題が「神社費を払わない人をどうするか?」というもの。

 過去に払わなかった人がいたらしく、一人の爺さんがしつこくその疑問を投げかけ、「ほんと、飽きないよなぁ」と毎度思うし、じつは参加するみんなも呆れてるほどである。

 家の状況で払えない人はしょうがないとして、「払わない(意志)がある人はどうすんの?」という話に発展することもある。その払わない人があげる理由としては、「この集落にずっといるつもりはない」や「無宗教だから」と声があがる。

 それを聞くと、神社総代のおっちゃんは「昔から集落を見守ってきた氏神様の世話するのは、骨を埋めるかどうかや、宗教は関係ないよ」とみんなに語りかけるのだけど、聞く耳を持たない人は納得しないようである。

 ちなみに、神社費は、年一の直会(ナオライ)やどんどさんの行事だったり、注連縄などの材料費だったり、神社の整備のために使われる。また、毎月神社掃除もあるくらい、集落の人みんなでケアするくらい大切にされている場所なのである。

 毎度この話を聞くなかで、ぼくが思うのは、「土地への愛着だの、宗教だのを持ち出すから話がややこしくなってるだけじゃん」ということ。

 ぼくが集落に入ってきたときに、「年一神社費を徴収するよ」と言われたとき、ゾクッとした。集落ごとに違うが、うちの場合は、神社費が4500円である。そのお金を払うことへの抵抗心は一つもなく、都会で賃貸アパート生活をしてた身にとっては、神社費が新しい概念だったからゾクッとしたのだ。

 で、なんで神社費を払うんだろう、と僕なりに考えてもみた。すると、神社費は、まあアパートで支払う「共益費」みたいなもんだろう、とすんなり落ち着いた。

 べつにずっと住み続けるかどうかなんてわからないし、その人がどんな宗派だろうが、「共益費ならしゃーないか」と受け入れやすくないか?

 と、2年前にぼくが入ったきたときのことを思い出しながら、常会の場のなかでの神社費あーだこーだを聞いて悶々とすることが多かった。

思うことはいくらかあっても、よそ者として来たばかりで、ほぼほぼ60代の年長者のなかに31の若者がぽつんとあった状況では、そうそう口にできるわけもない。過去3回の常会に関しては、悶々は胸にしまいモヤモヤとして熟成していた。

 ただ今年からは、ぼく自身が班長(副区長のような)役割を担えることになったので、発言もしやすくなった(もちろん、それまでにも集落の人たちと酒を交わしたり、行事をご一緒したりで、関係性を育ててきたのは大きい)。

 で、年始の初常会で「アパートの共益として考えたらどうか」みたいな話をしたら、みんなの表情を窺うに、わりとスッと収まってた気もしたので、時間をかけてやっとモヤモヤが浄化された気分である。

 ぶっちゃけた話、この神社費払う払わないの話は、集落で暮らすうえでは自分に影響は一つもない。また「こういうのがあるか集落(田舎)はめんどくさい」ということを言いたいわけでもない。むしろ、うちは寄り合いも少ないし、世間一般の「田舎の人間関係はしんどい...」のイメージとは真逆の集落なので、都会発想を持っていた自分でも住みやすいくらいである。

 更には、全国各地いろんな集落でこういった「神社費をどうする」みたいな些細な問題はあるだろうし、その考え方・解決方法も死ぬほどあるようにも思うから、「共益費」の発想を推したいわけでもない。

 これを書きなぐったのは、シンプルに「暮らす場所が変わったら、その土地のルールを決める価値観も当然変わってきて、それがじつはおもしろいよね」と言いたかっただけ。

 人の営みには、ある一定のルールが紐づくし、それは地域が一定の範囲で覆う価値観が根っこにあったりする。そういった背景を気にすることは、対人コミュニケーションにとっては大切なこと。

 話をちょっと広げれば、異文化コミュニケーションには必要な配慮でもある。ここで言う「異文化」は、イメージしやすい大陸や宗教や人種の違う「外国(国外)」はもちろんだけど、「日本(国内)」であっても同じこと。

 むしろ、"日本人"という括りで同一に見えがち/見られがちだからこそ、相手のなかにある異文化(とその背景)に目を向けることは必要なんだろうな。「多様性」と「寛容性」が求められるような時代だから尚更だ。

 その視点を集落の暮らしのなかで(ある意味、国内留学のように)生々しく学べてるようで、「どちらかといえば、都会的発想はこっちで、田舎的発想はこっちなのか」と価値観の振り幅も少しずつ広がっていってる気もする。

 そのおかげで、新たな人との新たな付き合い方を模索する脳みそを得れたのかも。運が良い。こっちに移ってきてよかったなぁ。ただそれだけのことなんですよね。

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