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スタッフストーリー#2(前編) / 鳥取で看護師をしていた私がいま青梅の病院で働いている理由

鳥取で総合病院に勤務する看護師だった。
あるテレビ番組を観るまでは鳥取を出ることも、家族と遠く離れて暮らすことも人生の予定表にはなかった。
衝撃的だった、というテレビ番組での出会い。
そしてその後に起こしたアクションは、自分自身でも信じられないものだった。
『スタッフストーリー』の第二弾は看護師、浜田美佳さんのストーリー。

バラエティ番組で青梅慶友病院に出会った

本当にたまたまでした。
お風呂上りにぼーっとテレビを眺めていたら『世界一受けたい授業』という番組で青梅慶友病院が紹介されていたんです。

当時は看護師になって5年目。
小さなころからの夢だった仕事に就くことができて、勤務先の病院でも良くしていただいていました。

一方で自分が思い描いていた看護の仕事とは、ほんの少しだけギャップを感じていました。
本当にこれでいいのかな、看護ってこういうことなのかな、って。

そんなこともあって、青梅慶友病院のことをテレビ番組で初めて知ったとき衝撃を受けました。
「うわあ、すごい。私はこういう看護がしたい」って。

ただ当時の浜田さんは、転職を考えていたわけでも、勤務先に不満があったわけでもなかった。
だから自分ごととしてではなく、ちょっと遠い世界の話として受け止めた。
理想の病院が東京にある、でもそこへ飛び込んでいく自分の姿は想像できなかった。

転職するつもりなんてなかったですから。
勤務先の病院でも仲間に恵まれていましたし、生まれ育った鳥取を出ることなんて選択肢にありませんでした。
何より、大好きな家族と離れるなんて私には無理と思っていました。

ただ、私にとって理想の病院があると強烈に思ったことは確かで、
日記に「青梅慶友病院」ってメモを残したんです。

テレビ放送を観たあと、私もあんな看護がしてみたいと理想を思い描きながらも、それまでどおり仕事を続けていた浜田さん。
転機は勤務先の病院が実施していた職員アンケートだった。
当時浜田さんが勤務していた病院では、職員に定期的なアンケートを行っていた。

希望の部署とか働き方を調査するためのアンケートなのですが、そこで改めて考えてみたんです。
私はどんな看護がしたいのだろう。

考えているうちに、あの日メモした言葉がポッと頭に浮かんできました。

「私は青梅慶友病院みたいな看護がしたい」って。

そこから浜田さんがとった行動は、「自分でも信じられません」というほど思い切ったものだった。
それまで考えもしなった転職、そして上京。
本当に幸運だったという出会いもあり、それから1年後には青梅慶友病院へ入職していた。

人材紹介会社へ登録して、「青梅慶友病院が希望です」と伝えました。
そうしたら、担当者の方がいろいろ調べてくださって
「その病院だったら紹介会社からではなく、ご自分でコンタクトをされた方がいいかもしれません」
とアドバイスをしてくれました。
紹介会社の方がこういうアドバイスをするのは珍しいことらしいのですが、私自身も、確かにそうかもしれないと思って行動に移しました。

こういう「人との良い出会い」に私は恵まれていると感じています。

浜田さんはさっそく青梅慶友病院へ連絡し、見学したい旨を伝えると夏休みを使って青梅へやってきた。
初めて足を踏み入れたとき、
院内が隅々まできれいにされていたこと、そして廊下ですれ違う職員の誰もが笑顔で挨拶していく様子に感激し決心した。
ここで働きたい気持ちだけでもぶつけてみよう、とその場で採用面接を受け、そして入職が決まった。

-2019年の夏-というコロナによって世界が一変してしまう直前のことだった。

タイミングがあと少しでも遅かったら、この縁はなかったのかもしれません。
愛着のある故郷で大好きな家族や同僚と、それまでどおりの生活を続けること、それも素敵な人生の送り方だと思いますし、もしそんな道もある中でコロナ禍になっていたら鳥取に残ることを選択していたと思います。

鳥取の家族や同僚は、遠くへ行ってしまったら寂しいと言ってくれた。
でも自分の思いを伝えたら、その全員が最後は「応援する」と背中を押してくれた。
もし東京での生活が合わなかったらいつでも戻っておいでと。

大好きな鳥取の仲間に送り出されて

たまたま目に入ったテレビ番組、たまたま良い人と良いタイミングで出会えたこと。
不思議なほど偶然が重なったことを、浜田さん自身は「恵まれている」と何度も口にする。

しかし、決断し行動を起こしたのは偶然ではなく浜田さん自身の意志だった。
昔から新しいことへのチャレンジは嫌いではなかった。
小学校で陸上競技、中学校はソフトボールと駅伝、高校ではハンドボールと異なるスポーツの部活に挑戦をしてきた。

その一方で看護師という職業に対しては一途な思いがあった。

保育園のころには「将来の夢は看護師」と書いていたようです。
おじいちゃん子、おばあちゃん子で高齢者のそばにいることが大好きでした。
看護師という職業を目指したのも祖母から勧めらたことがきっかけです。

私たちの病院は「自分の親を安心して預けられる場所」を病院の理念に掲げていますが、私にとってはすごく納得できる言葉で、両親や祖父母のことを思い浮かべると、どんな風に寄り添ったらいいのか、というヒントがもらえます。

鳥取の祖母と

未知なものへチャレンジする勇気と行動力、そして高齢者ケアへの深い関心は、鳥取で過ごした日々の中でも、静かに蓄えられ磨かれていたのだろう。


後編へつづく


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