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過去に自ら命を絶とうとした僕が「なぜ、今生きているか」を書いてみた(Part2)&「依存」について

こんばんは、雄町です。
もし良かったら最後まで読んで頂けると幸いです。

僕は公立の小学校に通っていた。当時の僕は真面目で理不尽なことが大嫌いだった。正義感ゆえに学級委員や児童会長を務め、他の児童や先生達からも信頼されていたと思う。では今の僕はどうだろう。僕は精神疾患を患い、家に引きこもっている。もちろん仕事もしていない。もし当時の僕が今の僕を見たら、相当ショックを受けるに違いない。その理由はおそらく「精神疾患を患っているから」ではないだろう。当時の僕は精神疾患を患っている人を馬鹿にするほど浅薄ではない。「仕事をしていないから」でもないだろう。当時の僕は事情があって働けない人を馬鹿にするほど幼稚ではない。では何にショックを受けるのだろうか。それはもしかしたら傷跡かもしれない。僕の心身にある無数の傷跡だ。その中には現代の医学では決して治すことのできない傷もある。それを見た当時の僕が今の僕に向かってこう泣き叫ぶのを感じる。「僕の人生何とかしてくれ!」その声は確かに今の僕の心臓に響き、ポンプのように血を押し流す。血の色は決して赤くはない。それは黒に近いような藍色をしている。5年間精神疾患と闘ってきた僕は今まで沢山の赤い血を流してきた。目に見えない無数の傷から流れた、目に見えない沢山の赤い血である。そんな僕は、時折、夜空に向かって手を伸ばし、暗闇に広がる「人類の悲しみの声」をかき集め、それらを自らの静脈に流し込む。「人類の悲しみの声」とは何だろう。まだ言葉を持たぬ我々の祖先は、悲しみをうめき声で表現した。うめき声は魂の一部である。それらは決して消滅することなく今も夜空に漂っている。一方、現代の我々は、声にならぬ声で悲しみを表現することが多い。心の中で行き場を無くした悲しみたちも、やはり夜空に居場所を求める。悲しみの数だけ、夜空はその藍色を深めてきた。今や、軽率に藍色と表現してはならぬほど、神秘的な色をしている。そんな「人類の悲しみの声」を静脈から流し込み、体全体に巡らせると、僕の傷跡は優しく癒される。悲しみを晴らすのは喜びかもしれないが、悲しみを癒すのはまた悲しみなのである。少し話は戻るが「僕の人生何とかしてくれ!」と泣き叫ぶのは小学生の時の僕だけではない。中学生、高校生、大学生、さらには5秒前の僕までもが今の僕に向かって「僕の人生何とかしてくれ!」と泣き叫んでくる。僕には一生懸命に歩んできた歴史があり、過去の僕が今の僕を必死に鼓舞し続けるのだ。だから僕は不安や恐怖に苛まれながらも、1歩ずつ歩みを進めなければならない。深い悲しみの淵にいる時は、また夜空に向かって手を伸ばせばいい。以上が僕が今生きている理由である。

これから話すのは僕が小学6年生の時の話である。僕のクラスには田村という男がいた。田村は小学生にしては随分と太っていて、授業中によく寝て先生に怒られていた。おそらく怠惰で寝ていたわけではない。どうしても睡魔が勝ってしまうといった様子だった。なので僕は田村が怒られるのを少し不憫に感じていた。ところが同級生の中には田村をイジって馬鹿にする連中がいて、次第にそれは虐めに発展していった。田村はもともと、田村、大竹、鈴木の3人グループで遊んでいたが、いつの間にか「大竹と鈴木が田村を虐める」という2vs1の構図が出来上がっていたのだ。最初は「仲が良いからふざけ合っているのだろう」と思って見過ごしていたが、次第に虐めが加速していくのを見て、僕は黙っていられず間に割って入った。大竹と鈴木に厳しい口調で注意し、田村には「もうあいつらとは関わらない方がいいよ。もしよかったら今度うちで遊ばない?」と声をかけた。そのとき田村はどんな表情をしていたのだろう。僕は覚えていない。結局、田村は卒業するまでずっと大竹と鈴木から離れなかった。おそらく虐めは続いていたが、それでも田村は3人グループでいることを求めているようだった。それは当時の僕には理解し難い出来事だった。

あれから月日が経って、僕は「人間は依存する生き物だ」という事実を知った。僕自身も恋人に依存してしまった経験がある。その恋愛はもちろん上手くいかなかった。依存する対象が人とは限らない。酒やギャンブル、タバコに依存する人もいる。分かっていても辞められない。それが依存というものだ。

ここで、僕が大学生の時の話をしたい。ある日の夜中、24時を過ぎた頃、女友達から1通のLINEが届いた。「ごめん。通話できる?」という短い文章だった。僕は暇だったので「できる。」と返し、その5秒後には着信音が鳴った。最初は酔っ払っているのかと思ったが、彼女はシラフだった。話の内容をまとめると「彼氏が酔って暴力を振るってきた。別れようと思ったが、大好きだから別れられない。」というものだった。彼女は1時間くらい「どれほど彼のことが好きか」を僕に語ってきた。僕は黙って聞いていた。「別れなよ。」と言うのは簡単だったが、その時の彼女の様子を見ると、別れたら相当メンタルを病んでしまうのが想像できた。稀に「失恋くらいで病むなんて」と馬鹿にした発言をする人もいるが、僕は失恋でメンタルが壊れて2回自殺未遂をした人を知っている。だからこそ、簡単に「別れなよ。」とは言えなかった。彼女は相当長い時間をかけて心の内を吐き出し、僕にアドバイスを求めてきた。困った僕は小学生のときの出来事を話した。先述した田村の話だ。そして彼女に「田村はどうするべきだったと思う?」と尋ねた。彼女は少し考えてから「虐めてくる人とは離れた方がいいと思うけど、そんな簡単な話じゃないと思う。」と言った。僕は全くその通りだと思った。そして一つ目のアドバイスとして、彼女も似たような状況にいることを伝えた。しかし、それだけでは彼女の悩みが解消されないことは分かりきっていた。だから僕は二つ目のアドバイスをした。その内容をまとめると「カップルカウンセリングを受けに行ってはどうだろうか。君が暴力を振るわれて悲しんだことや、君が彼氏に依存してしまっていることなどについて、君1人で悩むのではなく、君と彼氏の2人で悩むのでもなく、第三者に手助けをしてもらいながら、3人で悩んではどうだろうか。とことん問題と向き合って、それでも良好な関係を築けなかったら、その時は別れればいいのではないだろうか。」といったものだ。もちろん「一個人の意見だから、あまり真に受けないでほしい」とも伝えたが。これが僕にできる精一杯のアドバイスだった。彼女は「ありがとう。考えてみる。」と言って通話を切った。その夜、僕は眠ることができなかった。「彼女の力になれただろうか。」「もっと上手くアドバイスできたのではないか。」そんなことを考えていたら朝がやってきた。一限の授業があったので、大学に向かう準備をし、コンビニでコーヒーとメロンパンを買った。それから月日が流れ、半年ほど経ったとき、彼女からまたLINEが届いた。どうやらカップルカウンセリングを受けて状況が好転したらしい。とても楽しそうな様子が文面から伝わってきて、僕は少し嫉妬してしまったが、彼女の役に立てたことは素直に嬉しかった。

依存するほど好きな対象と「良い距離感を取ること」は簡単ではないだろう。でもそれは心身の健康につながるはずだ。必要なのは「自分で自分の人生を生きること」だと僕は思う。非常に抽象的な表現になってしまい申し訳ない。僕はこれまでnoteに「今、生きている理由」を3つ書いてきた。別のエッセイに(Part1)があるので、もし良かったら読んでほしい。読んでもらったら分かるように、僕は「生きている理由」を親や、恋人や、友達に押し付けることはしない。「生きている理由を自分以外の対象に押し付けること」こそが「依存」だと思うからだ。僕は過去の失恋で「依存」の怖さを知った。同時にとても深い苦しみを味わった。だからこそ僕は「自分で自分の人生を生きること」を僕自身に何度も言い聞かせている。

ここまで行き当たりばったりで文章を書いてきたが、脳が疲れてパンクしそうなので、今日はこの辺で終わりにしたい。今日は「なぜ、今生きているか」と「依存」について書いてみた。noteには他のエッセイと短歌集を載せているので、もし良かったら読んでみてほしい。

最後に、ここまで読んで頂き本当にありがとうございました。
雄町

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