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2030年冬季オリンピックをウクライナで開催すべし!〜オリンピックは選手を守る盾から平和を作る矛になる〜

ロイター伝によれば、「国際オリンピック委員会(IOC)は5日、ウクライナ国内の競技団体がロシアとベラルーシの選手が参加する大会にアスリートを出場させた場合に制裁を科す可能性を示唆したウクライナ政府を批判した」

オリンピズムから言えば当然の批判である。IOCがロシアによるウクライナ侵攻以来、ロシアとベラルーシの選手に出場制限をかけていたが、中立の立場などの条件付きで国際大会への復帰を認めるように国際競技連盟(IF)に勧告したことに対して、ウクライナ政府が「政治的に」動いたわけだ。

IOCはウクライナの競技団体制裁の意向を受け、「ウクライナにおけるスポーツの自治について深刻な問題が生じる」との声明を発表。さらに「ウクライナの選手と国内の競技団体だけが傷つき、戦争に与える影響は何もないだろう」としている。(ロイター伝)

スポーツを政治の下に置くのか、それとも上に置くのか、オリンピズムが問うのはその一点である。平時であれば、政府はあたかもスポーツが政治の上にあるように振る舞い、それがもたらす政治的メリットを貪る。「オリンピックは未来を創る」「スポーツは素晴らしい」と持ち上げる。しかしそれはその先にあるメリットが前提である。

コロナ禍で右往左往した日本ではスポーツが政治の上にあるように振る舞おうとする政治の嘘が白日の下に晒された。五輪を開催することで得られるメリットが見越せない状況でそれでも五輪をやるべしという哲学が表明できなかった。元々そう思っていないのだから仕方がない。もしコロナがなければそれによって得られた利益の上に太平の眠りを楽しんでいただろう。

残念なことにウクライナの政府も明らかにスポーツを政治の下に置いた。人と人とが垣根を超えて手を取り合える場であるスポーツを支配することを選んだ。これではオリンピック休戦を破ったことに対して何の懺悔もしていないプーチン政権と同等になってしまうではないか。

IOCのバッハ会長が3月22日に語ったことを思い出したい。それもロイター伝によるが、彼は「IOCが世界の政治的対立における審判にはなれない」と語り、1970─80年代の五輪で起こった各国のボイコットを例に挙げ、「五輪は政治から遠ざかるべきで、そうでなければ求心力を失ってしまう。政治が大会参加者を決めてしまえば、スポーツやアスリートは政治の道具になってしまう。その結果としてスポーツで団結力を高めることが不可能になる」と語っている。

この姿勢はオリンピズムから一点の曇りもない。スポーツがスポーツとしての自治を守る限りにおいて、スポーツが政治を超えて、人と人の輪を作り、それが世界の和になるというものである。この思想はこれまでスポーツを政治から守る盾として機能した。しかし、それだけでは政治の下に置かれ、その結果、政治が支配する対立を止揚できない状況になる。それがロシアとウクライナの戦争という帰結である。

そこで、バッハはその思想を一歩前に展開した。「私たちは政治的に中立でなければならないが、政治に無関心であってはならない。私たちの決定が政治的な意味を持つことは理解しており、それを含めて物事を考えるべきだ」とコメントしたのだ。

北京冬季五輪の時に米国など民主主義陣営が外交的ボイコットを表明した。その時、バッハは五輪が開催され、選手が五輪に参加できる限りにおいて、「政治は関係ない。政府高官が五輪に来ることも来ないことも問題としない」という立場を取った。その結果、どうなったか?

私は当時から民主主義と権威主義の対立関係にある時こそ、スポーツの場にスポーツに敬意を示して世界の政治指導者を集めるべきだと主張した。それが実際に「外交的に」実現していれば、今の戦争は起きていない。

しかしその時、世論は外交的ボイコットを容認し、スポーツを政治の下に置くのが当然と思った。その結果がどうであったか?プーチンはやってきたが、バイデンは来なかった。コロナ禍でやっとの思いで五輪開催の使命を果たした岸田も来なかった。スポーツを下に見た結果が、ウクライナ戦争だ。

4月6日は国連が制定した「平和のためのスポーツ国際デー」であった。バッハはその日に寄せたメッセージを前日に発表した。「スポーツは排除や分断ではない方法で平和への扉を開くことができる」

スポーツにしかできないこと、それは政治を平然と抑え込むやり方だ。「ほぼ全ての五輪で自国が戦争や紛争をしている状態にあるにも関わらず、平和の象徴として競い合う姿を見て来た」としているバッハの胸中には、様々なシーンが浮かび上がっていただろう。

中でも北京冬季五輪のフリースタイル男子エアリアルでウクライナのオレクサンドル・アブラメンコ選手が銀メダルを取り、ロシアのイリア・ブロフ選手が銅メダルとなったシーン。2018年平昌五輪でも前者は金メダル、後者は銅メダルだった。競技終了後、アブラメンコ選手をブロフ選手が後ろからハグして祝福し、お互いを讃えあった。選手たちが、国の代表として戦いながら、互いを尊敬しあっている姿がSNSで拡散され世界の人々に届いた。

この時点でロシアはウクライナに侵攻していないが、この二人の示した姿が絶対値となれば、戦時下からの平和構築への灯火が見えるのではないか?

オリンピズムを基軸とすればそこからプーチンやルカシェンコが外れるのはもちろんだが、
ゼレンスキーも外れてしまう。

しかしバッハが付言しているように「IOCが政治的な争いの審判になる過ちは犯すべきではない。でなければ政治力で押しつぶされてしまうだろう」スポーツはひたすら武器を捨てて、あらゆる境を超えてオリンポスに集まることを伝えるしかない。しかしこの無手勝流こそ戦争休止への方法序説なのではないか。

現況を克服するために何ができるか?2030年の冬季オリンピックをウクライナで開催することを提案したい。そのために政治を動かせば、軍事も変わる。それはIOCが政治的な争いの審判になることではなく、政治が動くべき道標を示すことになる。

ウクライナは2021年9月に冬季五輪招致を表明している。ゼレンスキーがIOCに直接伝えている。東京五輪の汚職事件で立候補が危ぶまれている札幌もその実現に協力する努力を見せれば、オリンピズムの洗礼を受け、新たな五輪招致の地平が開ける。混沌とした現況を革命的に変換する道が見える。オリンピックが盾から矛に変わる時が来ている。

(敬称略)

2023年4月9日

明日香 羊 

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編集好奇
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私はスポーツ思考vol.477で「岸田首相がゼレンスキーに贈った『しゃもじ』に対して贈るべきは日本刀であり、鞘に収まっている刀だ」と書いた。唐突に思われたと思います。しかし、論拠は三島由紀夫の「日本刀防衛論」(ご本人はそう言ってないと思いますが)です。本件につきましては、また後日、スポーツ思考します。

好評?!の「春日良一の哲学するスポーツ」第二話が4月10日零時公開。
ご覧いただければ幸いです。

春日良一

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