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帰巣本能

大学を無事4年で卒業し親父のコネで大手広告代理店に入社した。就職活動はほとんどしなかった。大学時代にバイトをしていた服屋の店長からの猛烈な誘いにそのままその服屋さんに就職しようと思っていた。ただ、東京に行きたかった。

就職はしたものの、志高い他のひとと自分を比べ自分はなんてあまちゃんなんだと入社前研修で萎えてしまった。

おふくろに「無理だ俺」と連絡を入れてみたが入社式前に辞めることはできなかった。

新入社員は半年間1ヶ月毎に6部署を回り半年後に配属先が決定する。最初に配属された部署でのこと。

入社2日目。終業時間となり一緒に配属された大河原くんは18時ちょうどに「お先に失礼します」とそそくさと帰っていった。周りの目を気にし10分待ってから帰ろうかなと座っていると電話が鳴る。新入社員は電話を取らなければならないことを入社前研修で教わった。電話を取る。

「お電話ありがとうございます。株式会社○○○です」

僕の斜め向かいの席の女性だった。ツンとしている感はあるが美人だった。

「あなた誰?」

「新入社員の○○です」

「私の机の上に封筒ない?」

「ありますが...」

「今から届けて」

「どちらまでお届けしたらよろしいでしょうか?」

「福島」

東京の地理にはある程度の知識があったが"福島"は知らなかった。

「どちらの福島ですか?」

「福島県に決まってるでしょ」

福島でお得意様を接待しながらの打合わせに重要な種類を忘れたとのこと。

「直ぐに届けて」

電話を取った自分が悪かった。
部長に電車賃を借り上野から新幹線に乗った。

19時前。福島駅まで2時間かかる。

場所は福島駅から直ぐのところある料亭だった。そこには電話をかけてきた女性と営業マン1名。お得意様は2名居た。

「おーっ悪かったねぇ。助かったよ。まぁ一杯。」

お偉いさんはすでにできあがっていた。注がれたら飲まなければならないということは研修で教わっていなかったが、注がれたら飲む。飲んでまた注がれる。ビールに日本酒。それらが体内に水の如く注がれていく。

その会合で1番大事な資料を忘れるという失態を犯した女性も何だか上機嫌だ。一安心といったところだろう。なんでそんな重要なものを忘れるんだこの人は。内心むかっ腹が立っていた。

お得意様が株主であることはペーペーでも理解できる。親父はそのお得意様の会社にいるのだから。このままではまずいと早い段階で悟る。

そんな状況を見てか若い営業マンが気を使ってくれた。

「今日は僕が泊まるホテルで泊まっていきな。部長には明日は午後から出勤するよう僕から言っておくから。」

ありがたかったが帰りたかった。入社2日目。とにかく帰りたい。

「今日は帰ります」

最終の新幹線に乗った。

皆で駅まで送ってくれた。そこまでは憶えている。

目が覚めたのは上野駅だった。新幹線のトイレで駅員に起こされた。2時間ずっとトイレにいたようだ。当時住んでいたのは品川(大井町)。上野で駅員に起こされた記憶はなんとなくあるが、上野から家までの記憶は全くない。青い電車(京浜東北線)に乗らなければというかすかな記憶。最寄駅から家までは歩いて15分程かかる場所であった。

翌朝目が覚めるとスーツ姿だった。全く記憶がないが目覚ましもちゃんとセットされていた。歯磨きだけしてそのまま会社に行った。

伝書鳩の帰巣本能は人間にも備わっているものなのだと感じた日であった。我ながら感心した。同時に終業時頃の電話には極力出ないようにするということもこれをきっかけに身についてしまった。

今となっては良い想い出だが。




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