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悪意や質の悪い好奇心

 「エスカレーターを歩くのは危険です。手すりをしっかりと掴んでください」
 駅で流れる注意を促す音声を基本的に無視している。人が密集し、縦横無尽に動き回っている此処、東京で、そんなルールを守っているのはごく一部だ。早足、伏目、無口を決め込んだ群衆は、その人にしか見えない道筋に向かって動き続けている。

 改札に繋がる上りエスカレーターを早足で駆け上がると、目の前にいたスーツ用のコートを着た男性が動かなかった。自分の右膝が、男性が左手に持っていたビジネスバックにぶつかった。思ったより硬い。プラスチックの箱、しかもその角に接触したような感覚だった。「ごめんなさい」。私は男性に謝罪を告げると、男性が睨みをきかせる。「ああ、そういうことか」。男性の肩越しに見えたのは、両手に杖を持った老人だった。ハットを被ったその老人はゆっくりと歩きながら改札を目指している。男性はその老人を待っていたため動かなかったのだ。

 電車の出発する時刻が迫っていた。改札を抜けホームへ急ぐ。下りエスカレーターを駆け降りたとき、男性のビジネスバッグとぶつかった右膝に違和感を持った。膝は毛先のように感覚がない。それなのに意思を持っていた。「おい、痛えよ」。そして、喋る。自分にしか聞こえないが、確実に喋る。「急ぐのもいいけど、痛えからな。覚えておけよ、痛えからな」

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 黄色の電車がホームに滑り込む。私の前を歩く青色の髪色をした若い男性が電車に乗り込む。「続け、続け、お前も続け」。膝の感覚は無いのに、体が引っ張られる。体の軸がブレ、不恰好に歩きながら電車に乗った。夕闇で黒色に染まった扉の窓は鏡のように私を映す。膝の様子はギリギリ見えない。私の金髪、緑色のロングコートだけが写っている。膝の語気は荒い。「こっち見ろよ、おい。わかってんだろうな。これからお前がいくところは遠いんだよ。楽しみにしているんだろ。早くいきてえんだろ。でも膝痛えよな。どうすんだよ」。もちろん私は無視する。そんな声にいちいち耳を傾け、心のスペースを割いていたら自分を見失う。全てを両立するなんて難しいだから。何かを犠牲にしないと生活は進んでいかないのだ。

 電車が発車する。乗り換える駅までは1駅、3分。「どうするんだよ、こんなに混んでて」「いつまでも俺の痛みを無視するのか」「行きてえところにいくのも俺なしでは無理なんだよ」「そもそもお前の守っているルールは何のためなんだよ」「何をしたいんだよ、お前は」。うるせえ。なぜ膝が突然、人格を持ったんだよ。

 乗り換えの駅に着き、電車内のほとんどの人が降りる。私も群衆の波に乗りながらJRのホームへと急ぐ。ただ、なかなかに膝がわがままである。通ろうとした改札を直前で一つ隣に移ったり、降りるべく階段の前で上下に無駄に動いたりした。何人かにぶつかったし、柱の周りを無駄に回ったりもした。「君のツイッターのフォロワーさんは何人ですか?」意味は分からないが、悪意や質の悪い好奇心だけを道行く人にむけている。周りの人に聞こえるはず無いのに喋るなよ、あほ。

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 JR山手線のホームへと繋がるエスカレーターの前にきた。とうとう膝は動かない。


「僕を何だと思っているんですか?」
膝だろ、何言っているんだよ
「お前はどこにいくんですか?おい、お〜い」
なぜ煽る?私は人に会いにいく。酒を飲んで楽しい話をするだけだ。
「エスカレーターは何のためにあるの?」
は?階段を上り下りするためだろう
「エスカレーターという言葉で思い当たる節は?」
高校から大学とか?
「君の人生は何か決まったレールがあるんですかね」

「すれ違う人と交わることもしないくせにイライラだけを向けて、自分だけを特別視して、決まったレールに乗っているのに自分で選んだ気になって、人に会っては幸せな時間を演出するふりをして。結局どこに行きたいの?どこで生きたいの?わかってんだろ、お前の限界や質の低さを」


 私は取り合わない。どうにか自由のきく左足をジリジリと前に進めながら、エスカレーターに乗り込む。そういえば、エスカレーターの黄色の枠に囲われた一段の箱はとても狭く、無機質なものだな、と思った。


 私の目は濁りはじめる。上を見ると、ホームはもうどこにもない。目の前に見えるのはどこまでも上に伸びるエスカレーターだけだった。右膝は黙り、もう意思はなかった。

<環プロフィール> Twitterアカウント:@slowheights_oli
▽東京生まれ東京育ち。都立高校、私大を経て新聞社勤務。
▽9月生まれの乙女座。しいたけ占いはチェック済。
▽身長170㌢、体重60㌔という標準オブ標準の体型。小学校で野球、中学高校大学でバレーボール。友人らに試合を見に来てもらうことが苦手だった。「獲物を捕らえるみたいな顔しているし、一人だけ動きが機敏すぎて本当に怖い」(友人談)という自覚があったから。
▽太は、私が死ぬほど尖って友達ができなかった大学時代に初めて心の底から仲良くなれた友達。一緒に人の気持ちを揺さぶる活動がしたいと思っている。
▽将来の夢はシェアハウスの管理人。好きな作家は辻村深月

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