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極端だから多様性

意外とnoteに書いてこなかったけれども、小説を読むのが好きだ。小説の一番の魅力は、自分の生活を一時でも忘れて別の誰かになれること、だと思っている。

しかし、朝井リョウの小説は、自分の生活を忘れることを許さない。彼が描くのは、自分が生きているこの世界そのものだからだ。もちろん他の作家の作品でもリアルな世界に通ずるものはあるのだが、彼の描く世界の混沌とした薄暗さは、私達が今生きているこの時代の雰囲気を、克明に切り取っているように思う。その現代性が私の「世界」観とあまりに近いから、小説も私の日常と地続きのものになってしまう。

だから、朝井リョウに「自分の生活を忘れて別の誰かになる」楽しさを求めることはできない。その代わり、私が今まさに生きているのと同じ舞台で私とは違う文脈の中で生きる人、の人生を見ることができる。環境が近いからこそ、その人の思考や信念は、直接的に自分の生き方に迫ってくる。

朝井リョウ「スター」を読んだ。
映像を撮りたい二人の青年は、一人はYoutube界へ、一人は映画界へ進む。雑にまとめると、二人が、Youtubeと映画、それぞれの良さや悪さと向き合っていく、というお話だ。

私もこれを見て本を手に取った、あらすじと魅力が詰まった動画⇩

多様性

多様性って一人でやるもんでも一作でやるもんでもなくてさ、同時代にいろんな人がいていろんな作品があること、じゃん。いろんな極端が同時にあるっていう状態が”多様性”なわけで、私たちは一つの極端でしかないじゃん。そんなの当たり前だったはずなのに、そこがごちゃ混ぜになっている感じない?今って。

一番食らったのがこの一節だ。
映画業界で監督を目指す主人公は、師匠に脚本案を何本も提出するが、いいリアクションは返ってこない。「ジェンダーの問題や古い価値観への違和感など、現代社会の問題点を深く鋭く突いているつもり」の作品になっているのに。それを読んだ先輩は「最新の価値観を反映してるからって映画としてクオリティが高いわけでもないしさ」とコメントし、それに続けて上のセリフが続く。

多様性は一人でやるもんでも一作でやるもんでもない。言われてみれば当たり前だけれど、意外と見落としがちな視点だと思う。

私の目は、一組しかない。物事を見る視座は、基本的に一つしか用意されていないのだ。人は、自分の身体を乗り物にして、いろんなものを見て、人生観や社会に対する認識を形成していく。
ただ、人間には言葉があり、想像力があった。自分とは違う視点を持つ人と話したり、本を読んだりすることで、脳味噌のなかに、他者の目らしきものを投入していける。一つの身体しかなくても、複数の視座を稼働させることができる。
「多様性」という言葉に、持ち合わせの一組の目だけに頼らず他者の目をちゃんと活用しろよ、という遠回しの命令を感じてしまうのは私だけだろうか。

けれど私はひとりだから、一通りの生き方しかできない。どんなに他者の目を投げ入れても、生きた目は結局一組だけだ。
たとえ考え方が「多様性」の命令に準じるものであったとしても、個人の生き方そのものを多様にすることはできない。多様性という言葉は要素の集合を形容する言葉にすぎないから、要素の一つである私は極端、でしかありえないのだ。

「多様性」という言葉は、息苦しいコンプラ社会のボスを連想させる。
「極端」に中性的な視点を強要するような方法でしか、「極端」がのびのび生きられる社会は実現できないんだろうか。






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