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黒澤清『蜘蛛の瞳』 - 虚無は飽和する

1997 - 1998年の、キレた黒澤清にハマった人の記録シリーズ④。

前回は『復讐 消えない傷跡』。

「あらすじ」「紹介(ネタバレなし)」「感想(ネタバレあり)」の3セクションで綴っていきます。



あらすじ

殺された娘の復讐を果たした新島(哀川)は、生きる目的を失い無為な日々を送っていた。そんなある日、再会した昔の同級生・岩松(ダンカン)に殺しのビジネスに誘われる。殺しの仕事を始めるうち、新島は暴力の世界にはまっていく自分を感じる。しかし、やがて新島は重大な決断を迫られることになるのだった……。

Prime Video

このあらすじは微妙に合っていない。最初30分くらいを見て想像を膨らませたんじゃないかと思う。が、全編みてもどう書いていいかは分からない。

紹介(ネタバレなし)

黒澤清の臨界点。すべてが虚無化していく真空の85分。

初見で見た時は「なんだよこれ……」と悪い意味で呆然としていた。しかし観終えてから徐々に脳内が浸食されていき、「なんだったんだよこれ……」頭に杭がさされた状態になってしまった。今回こんな記事シリーズを書き始めたのは『蜘蛛の瞳』に対して折り合いをつけたかったからである。今の自分は本作をある種の傑作と確信しているが、「すごい映画なんだ」と思って観てほしくはない。そういう「凄い」じゃないんだ。

この紹介記事を書くにあたって、自分は最初「特級呪物」と書こうとした。だけどむしろ、「ふつう呪われているだろうに何故かコレだけ呪われていない」、そんなヤバさが浮かび上がっている作品なのである。なんでコレをこんなドライに描けるんだ……?そういう恐怖。特級異物。

ここまでの3作と違って哀川翔にもキレがない。どうもこの異空間(映画)に戸惑っているように見える。「新島」のキャラクターは『蛇の道』の方がずっと得体が知れなく魅力的だし、続編とは思わない方が良いだろう。

本作の登場人物はみんな棒読みだが、素人というよりは宇宙人のそれである。ここでは誰も説明してくれない。シーンとして何が起きているかは分かるのに、何も意味が分からないまま時だけが進む。

何をもってオススメしていいか謎の映画である。
例えば観ると、呆然としたり唖然としたり、金(時間)を返せと思ったり、突如恐怖におびえたり、謎の笑いが込み上げてきたり、正気を失ってきたりする。そんな映画、きっと観てみたいよね(?)。

高橋洋は『復讐 - 過去の訪問者』→『蛇の道』で、黒澤清は『復讐 - 消えない傷跡』→『蜘蛛の瞳』で、その世界を飛躍的に進化させた。前者の進化はだれにも理解る。はたして後者は。脚本:黒澤清の臨界点とは!?君の目で確かめるんだ。責任はとらない。大怪作。




感想(ネタバレあり)

「ちょっと待ってくれよ なぁ」「なんなんd「訳を聞かせてくれよ・・・わ、訳を」「なんとか言えよぉ。なぁ。。・・・人違いなんだよぉ!!ちょっとぉ!!!」

まず開幕の暴力・フラッシュバック・暴力・家庭・暴力・会社を行き来する無茶苦茶なジャンプカットから冴えわたりすぎている。こんなにキレキレのオープニングはそう無い。

だが『復讐 - 消えない傷跡』同様、このキレ、映像的なクライマックスを何故か無化するところから、物語は動きだす。もとい、静止した状態で緩流を無抵抗に流れ続ける。

お前、こういう話知ってるか?
ある男がパラシュートをつけて飛行機から飛び降りた。落ちていく途中で男はパラシュートを付けていないことに気づいた。男は気が狂うほどの恐怖を味わった。そして失神した。
ふと眼を開けると、男はまだ空を落ち続けていた。
もう、気が狂うことも失神することもなかった。」

どっからこういう話引っ張ってくる(考える)んや

これはどうしようもない力学でもってただ落ち続ける映画である。しかし底である「死」に到着することがない。その間にすべてが意味を失っていき、「落ち続けている」という事実だけが映画に残される。いつ飛び降りたかは分からないが、何をしようが絶え間なく落ち続けている。


映画評論家アンドレ・バザンは、映画という概念の由来を説明するにあたって「死とは時間の勝利にほかならない」※1というシビれるフレーズを書いた。しかし本作の弛緩しきった時空間の前では、その言葉の鋭さは歪むだろう。ここに流れる時間は腐食しており、それは主人公の死を招き入れるに至らない。

その結果ものすごい虚無がそこに浮かび上がった。自分は本作に前脚本作『復讐 - 消えない傷跡』にあった"清節"の臨界点を見た。・・・気がする。

まずは話を振り返よう。それからもう一度考えてみたい。


■ダンカン/大杉漣・菅田俊によるデュアル虚無化システム

話を追うだけで如何にマトモじゃないかがよく分かる物語である。
ここには話がなくて、シーンしかない。

ダンカンこと岩松組サイドが現実生活(物理)を。謎の社会的上位存在たる大杉漣・菅田俊サイドが概念(精神)を虚無化していく。


ダンカンサイド。
新しい職場に向かった新島は、ひたすら謎の書類にハンコを押す仕事を任される。

「これはなんの書類なんだ?」
「俺にもちょっと分からないですね。まずいっすかそれじゃ。」
「いや……」
ポン・・・ポン・・・ポン・・・・
「やめる。俺にはこの仕事が向いていないようだ。」

何げないけど、本作はこれが第1ステップだ。
意味を問い、納得がいかず、やめる。

新島は会社を去ろうとするが、謎の映画引力(観れば分かると思うが本当に謎のカット)によって引き戻される。


大杉漣さんが最高

大杉漣・菅田俊サイド。
大杉漣による奇妙すぎる質問攻め。ここは本当にすごい。何がすごいか全く分からないけどすごい。一連の全ての語から一切のメッセージを感じさせない純水の会話。なんなんだコレ。

思い出すのはポール・トーマス・アンダーソン『ザ・マスター』(2012)の"プロセシング"のシーンだ。あれも圧倒される名シークエンスだったが、『蜘蛛の瞳』はもっとナンセンスで、新島は開けるべき感情模様を既に持ち合わせていない。

新島は友人たる岩松の調査を唐突に依頼される。そこでの会話はこうだ。

「意味が分からない。」
 「君にはこれを断る理由がない。」
「断る理由はない。しかしやる気もない。」
 「まずやってみるといい。やる気はあとからついてくる。」

これが第2ステップである。
意味は分からないが、やる事になる。

このセリフ回しよ。とにかくすべての会話が純化されている。ニーアでいう機械生命体かポッドの会話テンションである。この映画は全てこんな形で進んでいく。さながらスクラップ工場のベルトコンベアのように、機械的に運ばれていく。哀川翔が。翔を何だと思ってるんだ清。


ふたたびダンカンサイド。
何かを求めて釣りに向かうが(『復讐 - 消えない傷跡』のリフレインだ)、一匹たりとも釣れない。まったく無益な時間が鑑賞者に降り注いでくる。

やっと何か映像に動きが出た。引っかかったと思ったら長靴である。

「なんだコレ?」

スッ      
     ポチャン。
   
ブクブク……

「沈んでいきますねー。」

場面が切り替わる。

もうやめてくれ。頭がおかしくなる。


蜘蛛の瞳クライマックスまである。

そして現れる"大杉漣 ON THE CAR"。ここ面白すぎる。面白すぎるけど何を思ってこんな画を撮っているのか分からな過ぎて引き笑いになる。宇宙人のナンセンス。交わされる会話も情景も、すべては更に意味を見失っていく。

ラッシュは続く。大杉漣のボスらしい菅田俊が現れ、今度は謎の化石探しが始まる。いよいよ物語の骨格も崩れていく。とんでもない長回しと遠景で2人の追いかけっこをエセ久石譲のようなBGMとともに数分間見せられ続けた時の鑑賞者の気持ちを述べよ。

どっからこんなロケーション引っ張ってくんだよ

その果てで新島は化石を掴む。菅田俊は微笑む。「やったなお前。それだよ。」そこには何となく一抹のエモーション、充実感が浮かんでいる気が1mmくらいする。実際『復讐 - 消えない傷跡』の2人を踏まえれば割と感動的なシーンである。輪廻の先の本作にて、哀川翔と菅田俊は、無意味なルール上の取り組みの果て、何かを掴めたらしい。良かった。この映画の無意味さは、こういう救いのためにあったのかもしれない──・・・

というところで家庭に戻って。突如「最強のホラー」が差し込まれる。

死んだはずの子が隙間に映る、あまりに不意打ちなジャンル転換。

ここから映像も狂いだす。

序盤のキレが完全に失われた、「アンタのせいよ」からミキと抱きしめあうまでの緩慢なコンテ。

岩松と新島を追う手ブレしすぎなカメラ。

襲撃に際して「良いアイデアがあるんだ」と謳いながら、その案をなにも映さずコトが終わっている編集。

「袈裟を着た坊主を路上で追い詰めたら面白そう」以外のモチベーションが感じられないシークエンス(これ以上ないくらい最悪に最高な長回し)。

誰一人として殺人について楽しむ・苦しむとかの情感を持ってないのが"味"だと思う。
深刻な死が無表情で迫っている。
袈裟を着たオッサンに。
見晴らしのいい昼の道路にて。。

狂ってきた世界で、菅田俊がなんとなく映画全体をまとめようとする。化石について、彼はこう謳う。

「こいつらは土に還り損ねたんだ。」
「でも俺は好きだよそういうの。」

話は続く。

「一度終わったものにこそ価値がある。何の価値があるか。それはまだ誰にも分からない。」
「でも、これだけは信じられる。」
「虚無は不幸じゃない。新しい何かが始まる。」

流れゆくエセ久石譲のリフレイン。
明言された。やはりこれは虚無の映画だったんだ。そしてソレにはポジティブな萌芽があるらしい。うん、なんとなく話が締まった気がする。


しかし残り15分、物語は空転する。

「岩松を殺れ。」

これが第3ステップ、最終段階である。
「殺せ」。殺す。

新島はもう「意味は?」などと聞き返さない。


■"清"の臨界点 - 『蜘蛛の瞳』ラスト15分

ここからはダイジェストで振り返ろう。

①"岩松を殺れ"。
②大杉漣が死んでいる(岩松組が殺した?)。
③岩松の釣りが成功する。
④菅田俊があまりにあっけなく射殺される。
⑥実行犯の部下2人も流れで死ぬ。
⑦既に新島は岩松を瀕死に追い込んでおり、そのまま殺す。
⑧ミキが逃げ出し新島が追う。石を投げつけ倒れこんだ所に「おい。ミキ大丈夫か。」と心配そうに駆け寄り、射殺する。
⑨家庭にもどる。2人は無言でご飯を食べている。妻が嘔吐し、新島は平然と食べ続ける。
⑩殺して埋めたはずの男が何故か生きている(何に感動すべきか不明だがエセ久石譲のBGMがリフレインする)。
⑪ずっと主人公を捉えていた"何か"は、ただの木に意味深な袋が被さっただけのカカシだった。
⑫エンドロール。

このラスト15分の頭がおかしすぎる
これがもし漫画なら「打ち切りになったんだな」と察し、普通の映画なら「制作が破綻したんだな」とガッカリして終わりだ。でも『蜘蛛の瞳』は、仕事、日常、会話と純化・虚無化してきて、最後ここまで全てを無化するのかと絶句してしまう。

②~⑧の流れの中で④の「成功」は全く意味を持たない。悟りを説いていた菅田俊も何ももたらさず死ぬ。何より⑦、ふつうクライマックスだろう親友を手にかけるシーンすら飛ばしているのは余りに異常だ。明らかに怒涛の展開だが、淡々とただ流れていくので全く起伏がない。

このラストはこんな風に捉えられると思う。
①でまず「理由(動機)」が消滅する。②~⑧で「家庭」以外の全ての存在が機械的に葬り去られる。⑨「家庭」は存在しているが崩壊している。⑩自分の「過去」の実存が消失する。⑪自分の「現在」を捉え続けていたものが無だと理解る。ひとつずつ、人間の生にまつわる諸々を剝がしている。

ここに自分は、なんだか恐怖に近いものすら感じてしまう。



■何故ここまで「虚無」なのか、やたら真面目に考えてみる

怖いのは無意味への手つきである。「すべては無意味なんだよ!」と高らかに叫ぶようなメッセージなら理解できる。それはむしろ人間らしい手つきだし、そんな作品はたくさんある。でもこの映画に在るのは、人間が世界からつかみ取れるだろう意味すべてが物理的に風化しているような感触と世界認識である。

あまりにもな絶対虚無。
何をどうしたら"この境地"に至るんだろう?

「沈んでいきますねー。」


ここで改めて、自分が最初に書いた言葉に戻りたい。

①「人生という"生"よりも、そこに死んだように横たわり続ける”時間”」への視点だけが極められ、②「なぜそうなるのか、物語の展開をちゃんと分かるよう説明しないといけない」義務が完全に放棄された、黒澤清の臨界点

この姿勢を言い換えるとこうなる。

黒澤清は①"ある冴えたショット(時間)"を撮りたいだけである。だからそれ以外の全て(物語や人生的メッセージ)は不要なものである。そして②物語の展開を説明する必要はない。

さんざん「虚無だ」と書いたけど、たくさん本編画像を貼ってきたように、各シーンの映画としてのショットは凄い。本当はきっと、ショットだけを繋げて、昔の前衛映画のような無軌道さで物語未満のままただそれを展開したいのだ。でもここに「予算を出してくれた人たち」という極めて現実的な重力が加わる。フランスものには出来ない。さすがに物語の体は保たなくては……。
そこで清は閃いたんじゃないか。

映したいのは”ショット(時間)”だけだ。
じゃあそれ以外の、物語に勝手に纏わりついてくる何かをすべて排除する話として作ろう。

清 ※自分の完全なる妄想

ものすごく遠回りしたが、これが自分の見立てである。
本作はなぜこんなにも「虚無」なのか?

プロセスが逆なんだ。
「虚無」を描こうとして「ショット(時間)」を撮ってるんじゃない。
「ショット(時間)」を撮ること以外の意味を排除(無化)しようとして「虚無」になっている。

つまり

描こうと付け足すんじゃなく、剥がすことで「虚無」が露出している。
ここに自分は、『復讐 - 消えない傷跡』を極限化した清をみた。

最後にひとつ、黒澤清が愛するホラー映画についての発言を引こう。

これこそがホラー映画だと僕は思います。
すなわち「世界には絶対に理解できないものが存在する」とわかった瞬間の恐怖、あるいは「どうやら世界は、それまで自分が信じてきたものと全然違うようだ」と知った瞬間の、逃げ場のない暗澹たる気分。そういった人間の感情を描くのがホラーである、と僕は考えています。

黒沢清、21世紀の映画を語る

本作はホラー映画として撮られてはいないだろう。ただ、黒澤清は『蜘蛛の瞳』で、自身が映画に不要だと思っているものを全て剥いで虚無化してみせた。動機、意味、BGM、自己、過去、真実……だけど一般的な鑑賞者(自分)としては、不要だと剝がされたものにこそ価値を捉えようとしていた。

だから自分は、その手つきに──価値があるはずのものを無表情で機械的に剥ぎ取っていく──黒澤清自身に恐怖を感じたのである。

改めて、ここ切り抜いた奴は天才。



注釈・関連作、次作

※1. アンドレ・バザン『映画とは何か』
映画黎明期の1950年前後に活躍した批評家。完全に背伸びで買った本だったけど序盤からキレた言葉が多く飛び出してきて感動した。


関連作:Mr. Children 『I ♡ U』
まったく脈略なさそうだが、『潜水』という巨大虚無についても見てみてくれ。桜井和寿もまた、虚無を虚無と思わぬ手つきで活動できる怪人である。黒澤清はすべてを虚無化した。桜井和寿は自分以外の人間全員もそこ(虚無=市民プール)に沈める。こちらも恐ろしい男。桜井和寿に恐怖せよ。


関連作:The Jesus and Mary Chain / Psychocandy
意図的に虚無(ノイズ)を撒き散らかした者たち。通常形態という感じがする。


次作:『CURE』
いつか書くかもしれない。でも映画に詳しい凄い人たちがすでにたくさん書いてるから自分に書くことそんなないか・・・。ただ傑作です。「清節」が一般鑑賞者に一番納得できる世界設定のもと展開されている故の人気、名作感だと思う。


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