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黒澤清『復讐 消えない傷痕』 - 意味を見出さんとする虚無

1997 - 1998年の、キレた黒澤清にハマった人の記録シリーズ③。

前回は『復讐 運命の訪問者』。

「あらすじ」「紹介(ネタバレなし)」「感想(ネタバレあり)」の3セクションで綴っていきます。



あらすじ

黒沢清監督×哀川翔の「復讐」第2弾。復讐(ふくしゅう)の鬼と化した刑事は破滅へ

U-NEXT

あまりにも短い公式あらすじ2だがやはり実際これで十分であり、しかしそこに至るまで余りに蛇行運転がすぎる一作である。

紹介(ネタバレなし)

非常にハードボイルドだった前作をうけて、「復讐を始めてしまった人間は一体どこまで落ちてしまうのか!?」そういった更なる緊張感と羅刹を視聴者は期待する。自分はそうだった。あらすじ書いた人も多分そうである。次はどんな翔さんが観れるのかと。しかして語り手は高橋洋から変わり、始まるのは脚本「黒澤清」による虚無の煉獄である。襲い来るテクノBGMとナンセンスと暴力。これは一体なんの意味のあるシーンなんだ、あれ、意味があるって何だっけ……希望と活力に満ちてる人には必要ないものだけが描かれている映画。

ただその手つきにはまだ遠慮があり、今回取り上げた4作では一番キレを感じられない脚本だ。ただ、そのキレのなさが「人生」をむしろリアルに映し出している……気もする。

ただひとつこれだけは断言する。菅田俊が演じる「吉岡組長」、この中年のどうしようもなさのリアリティは素晴らしい。本当に厄介者で、痛切なまでに人間的魅力も未来もない。最終盤、どうしようもなく無意味だが感傷的な名シーンが映し出される。そこは見てほしい。

20代後半以降、人生に疲れている・飽きてきているひとにオススメ(?)。前作と同じくU-NEXTで鑑賞できる。




感想(ネタバレあり)

まず序盤の、ずっこけそうな出来の悪いテクノポップとともに進行する長い長い銃撃模様で作品の色が決定づけられる。面白いのは、黒澤清の作品は暴力に溢れているが、「治安が悪い」なんて言葉は別に浮かんでこない所だ。この世界は現実ではなく清時空である。発砲は誰にも聞こえないし、暴力と日常生活は基本的にお互いを侵犯することがない。

金属探知機を強行突破しサイレンが鳴り響くなか銃撃するシーンが文句なしにカッコイイ。こんな雑な置かれ方があるかよと爆笑してしまうが(『クリーピー』にもあった非現実的な舞台装置だ)、哀川翔がカッコイイのですべてを許せる。しかしてこの非日常のキレが日常のナンセンスに吸収されていってしまうのが本作、そしてこのころ"清"節である。

いきなり狂ったような長回しで滑稽な銃撃がはじまり、すぐにまた、何にこだわってそうしたかも不明な長長長回しでドライブが映し出される。いちいちやたらと長い。すげぇ!というより珍味の領域。

段ボールに突っこむことでドライブシーンに区切りつけるの笑ってしまった


■評価できない脚本

でも4作中ではやっぱり一番オススメできない一作だ。脚本:黒澤清の良くない所が凄く出てしまっていると感じるのだ。

どうにも中だるみしている。それはナンセンスシーンが多いからじゃなく、復讐先を見つけたりする物語上必要そうなシーンが退屈だ。まず「闇資金」のマジックワードが陳腐すぎて、サスペンスとしての全ての説得力を著しく失っている。そして作劇上の情報提供主たる刑事(西英介:井田國彦)にも全く魅力がない。これは役者さんのせいではなく、脚本家:黒澤清があきらかにこのキャラに興味を持っていないし何も描こうとしてないせいである。多分この部屋からあっちに行くためのドアくらいにしか思ってない。

『CURE』と『蛇の道』は、物語を動かす"もの"の説得力がキャラクター(役者、台詞、佇まい)に託されているので作品重力があった。「闇資金」なんて適当な言葉が彼らの名演の説得力に及ばないのは明らかだ。

とはいえ話の構図の意図は何となくわかる。感情を失い復讐マシーンと化した計画的な主人公と、感情に任せて衝動的で無計画なヤクザのボス、2人が表裏一体の存在となっている。そして、両者とも何処へも達せられない。その辺を通して「復讐の空しさ」を謳いたそうな手つきだが、黒澤清がそんな事に大して興味がないのは明白で、その踏みこみは非常に浅い。


■「吉岡組長」を語りたい

しかし一方で、どうにもならなそうなヤクザのボス、菅田俊が演じる「吉岡組長」。このキャラだけは本当に良い。自分の本作の評価点はだいたいこの人に集約される。この「実質終わってる」感はたぶん黒沢清にしか描けない気がする。北野武とは明確に異なるのだ。そこには美学や、殉ずるべき大層なものが存在しない。ただ無計画で衝動的にすごしているだけだが、何か大きな存在であろうとしている、虚無の大の大人。単に人間的魅力がない大きい人。敵側にいる呆気なく殺されるようなキャラが、本作では何故か屋台骨に据わっている。

クソ長い長回しでドライブ中にくだらない話をし続けるシーンのこのキャラのウザさは、誰もが「こんな年長者おるわ〜」と他者的に共感するんじゃないか。だけども、「将棋やろうか。やめようか。面白くねぇよな。」は、本当に伝わる人にだけ伝わる、生きている時たまにある"あの感じ"をよく捉えてる。何かを探しているが、絶望的にそれが遠くて見えず、闇雲に空回りしている感じ。こちらは自己的に共感してしまう。「温泉いこっか」もその類である。

そんな人間が、何か顛末的なものに至ろうとするなら、これしかないというエンディング。

・・・・・・・・

一番好きなシーンを見ていこう。最終盤。この世の道とは思えない道路を走りながら2人はやりとりする。

「道分かってんのか?」
「いや。……まぁ、何とかなるだろ」

……鼻歌……

「完全に道を間違えたな」
「コンビニで地図でも買うか……いや、それも面倒くせぇな」

サッドコア※的名画

そこから、小学生のようなゲームが始まる。「石を投げて桜の木に当てる。先に当てたほうが勝ち。」ここから線に出たら駄目だからな!とルールを決めていく吉岡。2人が無意味な「取り組み」を一緒に続ける様は、ほんとうにナンセンスだけども感傷的なシーンだ。見返すほどに何かが込み上げてくる。

安城は告げる。

「もう、ここで止めとくか。」

「・・・・・・あぁ。。そうだな。」

そして二人は終わりに向かう。1人は螺旋へ。もう1人は果てへ。

件のセリフが変奏される。
「将棋でもやるか。やってもしょうがねぇよな。」
楽しいかどうかは問題ではなくなった。義務と意味から離脱した男は、終わりへ自ら進む。


■何をしようが時間だけが横たわっていること、長回し

黒澤清は「人生とは」「どう生きるか」みたいなメッセージは本当にどうでもいいんだと思う。その視線は人生という"生"よりも、そこに死んだように横たわり続ける”時間”に向いている。

登場人物たちはその時間に意味を掴もうと抗っている。主人公は復讐で。ヤクザのボスは衝動的な手つきで。安城のセリフを繰り返そう。

「したいんじゃない。お前には分からないだろうが、しなきゃならないんだ」

安城

ここには義務や意味を求める前傾姿勢がある。ただ、その先に何もない本作は、「虚無は虚無である」というトートロジーを周回するだけで、物語の弾力はない。でもその開き直りが魅力でもある。

ただ時間しか流れていない映画という構造の中で、「何かをしなければいけないが、その意義を失っている(安城)と何か自体を持っていない(吉岡)2人」が、狂ったように無意味な長回しとともに映され続けている。

だから何も映っていない。過ぎていく時間の物理しかそこにない。

その象徴として、「行き先に辿り着けないドライブ」が映されており、だからこそ「もう、ここでやめとくか」「あぁ、そうだな」という離脱で話が終わる。吉岡は文字通り終えた。安城は終えたが、ドライブを続けることを選んだ。


■まだ「語る」気のあった"清"

この「しなければいけない」は、恐らく脚本家としての黒澤清の「なぜそうなるのか、物語の展開をちゃんと分かるよう説明しないといけない」気負いでもあったんじゃないかと勝手に想像する。この頃には多分まだその気持ちがあったのだ。「こんなショットを取りたいだけだが、お客さんに物語として伝えないといけない……」。つまりは。

「したいんじゃない。お前には分からないだろうが(?)、しなきゃならないんだ」

黒澤清※妄想

そのへんが混濁しているから脚本としては魅力的じゃない(ただのガイドだった刑事は、脚本の不純物として見せ場もなく事務処理的に殺されている)。だけど一方で、「説明しなくていいだろと思ってることを説明しなくてはならない黒澤清」が、安城と吉岡組長のキャラおよび本作テーマに共鳴し、そうした取り組みの虚無さ・手探り感がここまで際立ったんじゃないかと自分は思う。もちろん非常に勝手な想像です。

2回見て、そして観終わってから1ヶ月くらいして思い返すと、突然好きになってきた。決して完成度が高いとは思わないけれど、不思議な魅力のある映画。


■「語る」気を放棄した"清"→次作『蜘蛛の瞳』へ

そして話は清脚本の続編へと移る。

先ほど言っていた"一般的な語り"への努力が何故か突如放棄され、「何をしていてもただ時間しか横たわっていない」という黒澤清の肌感覚を極限化した結果、クソヤバ異物が生まれる。

"清"節の覚醒。
大怪作『蜘蛛の瞳』である。


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