Reflections on The Uses of Argument『論述の技法』省察録(7)
022年12月23日 21:10
さて、前回に引き続き、Prior aAnalyticsの冒頭の言葉から議論していこう。
Πρώτον είπεΐν περί τί καί τίνος έστίν ή σκέφις, οτι. περί άπόδειξιν καί επιστήμης αποδεικτικής"
このギリシャ語をどう訳すか?試しにdeepLに入れてみた。次のような役が出てきた。
First, he said about what and what the thought was about, that is, about proof and science of evidence."
でこれをdeepLでさらに日本語にした。まあざくっとこんな意味である。
まず、証明と証拠の科学について述べた。
トゥールミンはこの文章だけをひいているが、あと数行続く。そこまでを含んで見ていこう。
ここを今回は、Oxford大学出版局からでているClarendon Aristotle Series のAristotole Prior Analytics Book1ではどのように扱っているのか見てみることにする。
これは2009年の出版である。Gisela Strikerの翻訳とコメントを解説しながら話を進めていこう。
Strikerの翻訳
First, to say about what and of what this is an investigation: it is about demonstration and of demonstrative science. Then, to define what is a premiss, what is a term, and what a syllogism, and which kind of syllogism is perfect and which imperfect. After that, what it is for this to be or not to be in that as in a whole, and what we mean by ’to be predicated of all’ or ‘of none’.
まず、これは何について、また何についての調査であるかを述べることにしたい。その次に、前提とは何か、条件とは何か、三段論法とは何か、どのような三段論法が完全であり、どのような三段論法が不完全であるかを定義する。その後、全体としてこれがあること、ないことは何であるか、また、「すべてのものから述 べられること」及び「どれからも述べられないこと」とは何かを考えたい。
となる。
このセクション全体でのべていることをStrikerは自身の言葉でまとめている。
The subject of the investigation is demonstration and demonstrative science. The most important technical terms are introduced: premiss, term, syllogism, perfect and imperfect syllogism, belonging to all or to none.
調査の対象は、実証と実証科学(demonstration and demonstrative science)である。最も重要な専門用語は前提、条件、三段論法、完全三段論法と不完全三段論法、すべてに属するか、すべてに属さないか、である。
そして、1行ごとのコメントに向かう。ちょっと読むのはめんどくさいが、原典と格闘しているアリストテレス哲学研究家の思考を知るにはなかなか面白い例なのでしばらく続けてみよう。原文にあるこまかな参照番号は省略した。
‘First, say about what...’. The treatise begins without an introduction; there is just a brief statement of the subject and a list of technical terms. In fact, demonstration and demonstrative science are treated only later, in the Posterior Analytics; syllogistic—the theory of valid deductive argument—is a necessary prerequisite for their study. By contrast, the Posterior Analytics opens with a general remark that leads on to the subject and underlines its importance (cf. the opening sentences of Met. A, 980a 20, and EN tO94a 1-2). This is probably an indication of the fact that the overall plan for the four books of the Analytics was imposed—no doubt by Aristotle himself—on a collection of materials that had been written before.
まず、「何について...と言う」と始まるこの論文には序論がなく、主題の簡潔な記述と専門用語のリストがあるだけである。実際、実証と実証的科学が扱われるのは、後の『Posterior Analytics』においてであり、その研究には、三段論法(有効な演繹的議論の理論)が必要条件となる。これに対して『Posterior Analytics』の冒頭は、主題を導く一般的な発言で始まり、その重要性を強調する(Met.A, 980" 20やEN tO94a 1-2の冒頭文など)。これは、『アナリティクス』四巻本が以前に書かれた資料の集まりを、アリストテレス自身がまとめたことを示すものであろう。
”about what and of what". Commentators from ancient times on have debated the question whether Aristotle is introducing one or two questions here, and if two, what difference is indicated by the words ‘about’ and ‘of what' (a Greek genitive). If the genitive is taken to be objective. Aristotle is simply offering two versions of the same question regarding the subject of the inquiry, and his answer tells us that it deals with two closely connected subjects. However, if the genitive is taken to be subjective, we arc presented with two questions. The answer to the first—what is the subject of the investigation?— would be simply ‘demonstration’, the second question would concern the discipline to which the investigation belongs. The answer would be that this inquiry belongs to demonstrative science—either in the sense («) that it is itself a demonstrative science, or in the sense (/?) that it belongs to demonstrative science in general, because any scientist concerned with finding proofs must be familiar with syllogistic.
「何について」、および「何の」。古来より論者たちは、アリストテレスがここで導入している問いは一つなのか二つなのか、二つなら「何について」と「何の」という言葉(ギリシャ語の所有格)が示す違いは何なのか、という問題を議論してきた。もし所有格が主格であるとするならばアリストテレスは、問いの主題に関して、同じ問いを二つのバージョンで提示しているだけであり、その答えは、それが密接に結びついた二つの問題(サブジェクト)を扱っていることを教えているのである。しかし、もし主語が目的格であるとするならば、我々は二つの問いを提示される。第一の質問-調査の対象は何か-に対する答えは、単に「実証」であろう。第二の質問は、調査が属する学問分野に関するものである。その答えは、この調査が実証科学demonstrative scienceに属するということである。それは、a: それ自体が実証科学であるという意味でも、あるいは、b: 証明の発見に関心を持つ科学者であれば三段論法に精通していなければならないので、実証科学一般に属するという意味においてでもである。
The first and simpler interpretation seems to be confirmed by a remark near the end of the Posterior Analytics, where Aristotle unequivocally states that he has dealt with demonstration and demonstrative science (99b 15-17; see Brunschwig 1981). Yet this does not entirely rule out the second interpretation, since the back reference could be imprecise. In any case, the second interpretation raises an important question that may merit a brief digression. It seems to me that option (a) is hard to defend, while option (b) was probably Aristotle’s own view, whether he alluded to it here or not.
第一の単純な解釈は、『Posteria Analytics』の終わり近くで、アリストテレスが実証と実証的科学について扱ってきたと明確に述べている(99b 15-17; Brunschwig 1981を参照)ことで確認できるようである。しかし、資料のレファレンスが不正確である可能性もあるので、第二の解釈を完全に排除するものではない。いずれにせよ、第二の解釈は重要な問題を提起しており、本論からそれるが議論するに値するかもしれない。(a)の選択肢は擁護しがたいが、(b)の選択肢は、ここで言及したかどうかは別として、おそらくアリストテレス自身の見解であったように思われるのである。
(a) It is natural for a modern reader to consider Aristotle’s system of syllogisms as a paradigm of axiomatized theory. This view has been the basis of many formal models since Lukasiewicz. Still, one should hesitate to ascribe this view to Aristotle himself. For while he evidently realized that the proofs of validity for the syllogistic moods in chapters A 4-6 are indeed proofs or even demonstrations, the very limited language of his syllogistic is clearly not sufficient to represent the theorems about the validity of the moods he actually proves, simply because it does not contain propositional connectives. In other words, these proofs arc not themselves syllogistic arguments: they arc proofs of theorems about such arguments. Taken as an axiomatized system, syllogistic is in fact a counterexample to its inventor’s claim that every scientific demonstration must either be in syllogistic form or contain at least one syllogistic step (A 23). (See. however, Mcndcll 1998 for an attempt to explain why Aristotle thought that syllogistic would be sufficient to represent Greek geometrical proofs.)
(a) アリストテレスの三段論法体系を公理化された理論のパラダイムと考えるのは、現代の読者にとって自然なことである。この見方は、ルカシェヴィッチ以来、多くの形式モデルの基礎となっている。しかし、このような考え方をアリストテレス自身にあてはめることには躊躇がある。なぜなら、彼は、4章から6章に登場する三段論法的気分の妥当性の証明が、確かに証明、あるいは実証であることを認識していたが、彼の三段論法の非常に限られた言語は、命題接続語を含まないだけで、彼が実際に証明する気分の妥当性に関する定理を表現するには明らかに不充分であるからである。つまり、これらの証明は、それ自体が三段論法的な議論ではなく、そのような議論に関する定理の証明なのである。このように、公理化されたシステムである三段論法は、「すべての科学的証明は三段論法形式であるか、少なくとも一つの三段論法ステップを含まなければならない」という発明者の主張に対する反証である(A 23)。(しかし、アリストテレスがギリシャの幾何学的証明を表すのになぜ対句的なもので十分だと考えたのかについては、Mcndcll 1998を参照されたい)。
と続いていく。アリストテレスを実証と演繹をくみあわせて科学的思考をはじめた開祖と位置づける流れになっていく。これが2009年のオックスフォード大学が出版するAristotleの研究の解釈の最前線と言って良いだろう。論理学はこの流れに乗って人間の思考を考えていく。だが、1957年に『論述の技法』を書いたトゥールミンはそう考えなかったし、2003年に改訂版がでたときにも論理学の流れで考えることだけが哲学の仕事ではないと主張している。次回はもう一度トゥールミンの『論述の技法』の2002年に書かれた前書きの後半部に戻って、それを解題しながらどのような意図をもって『論述の技法』が書かれたかを見ていくことにする。
まとめ
Clarendon Aristotle Series でGisela Strikerが翻訳とコメントを書いたAristotole Prior Analytics Book1においても科学的思考を支える論理学としてアリストテレスを考えている。論理学と哲学の組み合わせが強く確立している。この方向ではだめだと、トゥールミンは考えて、1958年に本を出版し、哲学をrationaityとlogicの二つの面があると主張したが、2002年になって、彼の『論述の技法』が広く認められるようになっていても、哲学を論理学の流れだけで考える動きは変わっていなかったのである。
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